| 白川和子 Kazuko Shirakawa | |
|---|---|
![]() 第73回毎日映画コンクール表彰式にて(2019年)(出典:デイリースポーツ) | |
| 誕生日 | 1947年9月30日 |
| 年齢 | 79歳 |
| 出身地 | 長崎県佐世保市(育ちは東京都) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京都立目黒高等学校卒業、跡見学園女子大学中退 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
| 活動期間 | 1966年 - 1973年、1975年頃 - |
| 家族 | 寺岡呼人(甥) |
| 身長 / 体重 | 158cm cm / ― kg |
| 事務所 | ワハハ本舗 |
| 代表作 |
『団地妻 昼下りの情事』(1971) 『青春の殺人者』(1976) 『復讐するは我にあり』(1979) 『凶悪』(2013) 『ペコロスの母に会いに行く』(2013) |
| 関連活動 | 50・60これからだ(ジジ・ぶぅとのお笑いコンビ) |
| あだ名 | ロマンポルノの女王、元祖・団地妻 |
| その他 | 第73回毎日映画コンクール 田中絹代賞(2019) |
概要[編集]
白川和子(しらかわ かずこ、1947年9月30日 - )とは、日本の女優である。ピンク映画で200本超の主演を重ねたのち、日活ロマンポルノの記念すべき第1作『団地妻 昼下りの情事』(1971年)に主演し、「ロマンポルノの女王」と呼ばれた。一度は結婚で引退したが復帰し、半世紀以上にわたって映画・テレビの名脇役として活躍し続けている。
詳細[編集]
「元祖・団地妻」という看板[編集]
白川和子の名前を聞いて多くの映画ファンが真っ先に思い浮かべるのは、やはり『団地妻 昼下りの情事』である。1971年11月20日、経営難にあえいでいた日活が社運を賭けて送り出した新路線「ロマンポルノ」の第1弾で、監督は西村昭五郎。この作品が大ヒットしたことで「団地妻」はシリーズ化され、白川は一躍「ロマンポルノの女王」「元祖・団地妻」と呼ばれる存在になった。
ロマンポルノは1971年から1988年までの17年間に1100本以上が製作された一大レーベルとなり、神代辰巳、田中登、小沼勝、曽根中生といった監督たちを世に送り出した。その出発点の顔が白川だった、という事実だけでも日本映画史に名前が残るのは確実である。
ピンク映画230本の下積み[編集]
ただし白川のキャリアはロマンポルノから始まったわけではない。大学在学中に劇団に入り、1967年に向井寛監督の『女子寮』で映画デビュー。その後約5年間で、独立系プロダクションが量産していたピンク映画に約230本も主演したとされる。単純計算で年に40本以上、週1本ペースに近い。日活が新路線の主演女優としてすでに実績のある白川を専属に迎えたのは、この圧倒的な経験値があったからだといえる。
引退、そして脇役女優としての第二の人生[編集]
人気絶頂の1973年、白川は結婚を機に引退する。引退記念作として、自身の歩みを下敷きにした『実録 白川和子 裸の履歴書』(曽根中生監督)が公開されたのも語り草である。ところが約2年後、テレビのワイドショーのコメンテーターの依頼を受けたことをきっかけに芸能界へ復帰。1976年の長谷川和彦監督作『青春の殺人者』で本格的に女優業へ戻り、以後は今村昌平監督の『復讐するは我にあり』『ええじゃないか』『黒い雨』などに出演、「ロマンポルノ出身」の枠を超えた性格俳優として定着していった。
経歴[編集]
生い立ちと女優への憧れ[編集]
1947年、国家公務員だった父の勤務地である長崎県佐世保市で生まれる。父の転勤に伴い各地を移り、中学時代に一家で東京へ戻った。東京都立目黒高等学校では演劇部に所属し、16歳ごろにプロの舞台を観劇。そこに出演していた市原悦子に強く憧れ、女優を志すようになる。後年の受賞スピーチでも「16歳の時に市原悦子さんに憧れて女優になろうと決めた」と振り返っており、これが白川の原点である。
高校卒業後は跡見学園女子大学に進学したが、厳格な父への反発もあって芸能界入りを志向するようになり、在学中に劇団「赤と黒」に入団した。
ピンク映画時代(1966年〜1971年)[編集]
1966年には雑誌『デラックス・パンチ』でヌードグラビアに登場。この頃、対談した作家の三島由紀夫から、脱ぐ仕事を恐れずに続けるべきだと助言されたというエピソードが知られている。1967年、向井寛監督『女子寮』で映画デビュー。以降は成人映画の世界で主演作を次々と重ね、約5年間で約230本に主演したとされる。この過程で大学は中退した。
当時の撮影環境は今とは比べものにならないほど簡素で、ロケは旅館などで行われ、メイクも衣装も女優が自前で用意するのが当たり前だったという。父には女優活動を強く反対されたが、父の名前と職業を公表しないことを条件に、続けることを許されたとされる。
日活ロマンポルノへ(1971年〜1973年)[編集]
1971年、映画産業の斜陽化で経営危機に陥っていた日活は、一般映画の製作を縮小し、成人映画路線「日活ロマンポルノ」への転換を決断する。その記念すべき第1作の主演として、日活の専属女優に迎えられたのが白川だった。同年11月20日公開の『団地妻 昼下りの情事』は大ヒットを記録し、白川は「ロマンポルノの女王」の称号を得る。
もっとも、当時の世間の目は厳しかった。白川はのちに、撮影直前に妹と電話した際「家族はどん底だった」と言われたこと、妹の縁談が破談になったこと、父が役所を辞めると言い出したことなどを明かしている。そんな中で大島渚監督から背中を叩かれ「頑張れ」と励まされたことが、奮起のきっかけになったという。初期ロマンポルノでは田中真理、片桐夕子らと共演し、谷ナオミ、宮下順子らとともに草創期のレーベルを支えた女優の一人に数えられる。
1971年には東北大学の学園祭に招かれ、学生たちから熱狂的な歓迎を受けたというエピソードも残っている。
結婚と引退(1973年)[編集]
1973年、1972年の正月興行の仕事で知り合った日活関西支社の社員と結婚し、女優業を引退。引退記念映画『実録 白川和子 裸の履歴書』が公開された。夫は17歳年上で、前妻を亡くしており2人の子どもがいた。白川は大阪で専業主婦となり、のちに次女を出産している。
「団地妻」の主演女優が本物の団地妻になった、という話題性もあってか、団地では嫌がらせや白川の退去を求める署名運動まで起きたという。白川は地域の活動に積極的に参加することで住民との関係を築き、やがてわだかまりは解消したと語っている。
復帰と一般作品での活躍(1975年頃〜)[編集]
結婚から約2年後、ワイドショーのコメンテーターとしてテレビに出演したことをきっかけに芸能界へ復帰。1976年『青春の殺人者』で女優業を本格再開した。1979年の『復讐するは我にあり』、同年の柳町光男監督『十九歳の地図』、1981年『ええじゃないか』、1989年『黒い雨』、1990年の小栗康平監督『死の棘』と、日本映画を代表する監督たちの作品に次々と出演している。
テレビでは必殺シリーズ(『新・必殺仕置人』『翔べ!必殺うらごろし』『必殺仕事人』など)の常連ゲストとなったほか、『熱中時代』『3年B組金八先生』『噂の刑事トミーとマツ』『特捜最前線』など人気ドラマに多数出演。舞台でも『雪国』『女系家族』『椿姫』『黒蜥蜴』など幅広い作品に立った。
私生活では1980年に離婚したが、次女が父親を慕ったことなどをきっかけに、1985年に同じ相手と再婚(復縁)したとされる。この家族の再生の歩みは、のちに著書『わたしの家族革命』(1999年、潮出版社)にまとめられている。
病との闘い[編集]
1980年代以降、白川は子宮がん、脳梗塞、慢性膵炎、卵巣腫瘍と、相次いで大きな病を経験したと本人の著書などで明かしている。いずれも治療によって乗り越え、仕事を続けてきた。1987年の著書『いのち輝いて』は、のちにテレビドラマ化され、白川自身も本人役で出演している。
2000年代以降:名脇役として[編集]
2000年代以降も『Dr.コトー診療所』『白い影』『相棒』などのドラマに出演。2010年には「ロマンポルノ・RETURNS」として22年ぶりにリメイクされた中原俊監督版『団地妻 昼下りの情事』に特別出演し、新旧の団地妻が共演する形となった。
2013年は当たり年で、白石和彌監督の『凶悪』、森崎東監督の『ペコロスの母に会いに行く』に出演。『凶悪』では被害者の妻役を演じ、強烈な作品の中で存在感を残した。
2009年にはお笑い芸人のジジ・ぶぅとコンビ「50・60これからだ」を結成し、なんとM-1グランプリに出場。1回戦を突破したが2回戦で敗退した。2015年6月にはワハハ本舗の所属となり、久本雅美や柴田理恵らが在籍する劇団系事務所の一員として活動している。
田中絹代賞と近年の活動[編集]
2019年2月、第73回毎日映画コンクールで、長年の功績をたたえる田中絹代賞を受賞した。表彰式では声を震わせながら「足が震えております」と語り、「昭和の映画史を飾られた田中絹代さんの賞をいただけるなんて、まだまだ信じられません」と喜びを表した。
2020年代も出演は途切れず、ドラマでは『我らがパラダイス』『罠の戦争』『お別れホスピタル』『老害の人』『秘密〜THE TOP SECRET〜』などに出演。映画では『春画先生』(2023年)、『唄う六人の女』(2023年)、『サンセット・サンライズ』(2025年)、高橋伴明監督の『「桐島です」』(2025年)などに顔を出し、2026年にも『金子文子 何が私をこうさせたか』『トロフィー』『八月の杜』『あなたの息子ひき出します!』など複数の公開作が映画情報サイトに並んでいる。70代後半になってなお、年に何本も新作に出る現役ぶりである。
主な出演作品[編集]
映画[編集]
- 『女子寮』(1967年) - 映画デビュー作
- 『団地妻 昼下りの情事』(1971年) - 日活ロマンポルノ第1作
- 『実録 白川和子 裸の履歴書』(1973年) - 引退記念作
- 『青春の殺人者』(1976年)
- 『らしゃめん』(1977年)
- 『西陣心中』(1977年)
- 『復讐するは我にあり』(1979年)
- 『十九歳の地図』(1979年)
- 『ええじゃないか』(1981年)
- 『黒い雨』(1989年)
- 『死の棘』(1990年)
- 『東京兄妹』(1995年)
- 『死に花』(2004年)
- 『大阪ハムレット』(2008年)
- 『団地妻 昼下りの情事』(2010年、リメイク版) - 特別出演
- 『デンデラ』(2011年)
- 『婚前特急』(2011年)
- 『凶悪』(2013年)
- 『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)
- 『少女』(2016年)
- 『牝猫たち』(2017年)
- 『光』(2017年)
- 『春画先生』(2023年)
- 『サンセット・サンライズ』(2025年)
- 『「桐島です」』(2025年)
テレビドラマ[編集]
- 必殺シリーズ(『新・必殺仕置人』ほか多数)
- 『熱中時代』
- 『3年B組金八先生』
- 『噂の刑事トミーとマツ』(1980年)
- 『特捜最前線』(1986年)
- 『いのち輝いて』(1989年) - 本人役
- 『夏子の酒』(1994年)
- 『君といた夏』(1994年)
- 『金田一少年の事件簿』(1995年)
- 『白線流し』(1996年)
- 『白い影』(2001年)
- 『Dr.コトー診療所』(2003年)
- 『特捜9』(2019年)
- 『遺留捜査』第6シリーズ(2021年)
- 『我らがパラダイス』
- 『お別れホスピタル』(2024年)
- 『老害の人』(2024年)
著書[編集]
- 『いのち輝いて』(1987年、潮出版社)
- 『くもりのち晴れ ときどき大雨注意報』(1989年、潮出版社)
- 『わたしの家族革命』(1999年、潮出版社)
人物像[編集]
家族思いの「肝っ玉母さん」[編集]
白川の人生を語るうえで欠かせないのが家族である。結婚相手には亡き前妻との子が2人おり、白川はいきなり2児の継母となった。家庭は決して平坦ではなく、子どもたちが荒れた時期もあったとされるが、のちに3人とも社会人として自立。白川は子どもたちから「一度も腹違いだと思ったことはない」と言われたことを、人生の大切な勲章だったと振り返っている。
両親の言葉を胸に[編集]
受賞スピーチでは、父から「深みのある人間になりなさい」と言われたこと、母が台所の板に「継続は力なり」と書いて励ましてくれたことを披露した。芸を磨く前にまず人として自分を磨け、という教えとして受け止めてきたという。批判の矢面に立たされたのはむしろ家族の方だったと語り、他界した両親もこの受賞でようやく安心してくれるだろうと述べた。目標として掲げたのは「一隅を照らす女優」。主役でなくとも、自分の持ち場を照らし続けるという姿勢は、その後のキャリアそのものである。
後輩たちへのまなざし[編集]
2016年、日活が「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」を始動させた際の45周年記念イベントでは、風祭ゆきらとともに登壇。新作に出演した若手女優たちを「あっぱれ」とねぎらい、「素敵な後輩たちができたので、私はもうお役御免」と笑いを誘いながら目を潤ませた。リブート作『牝猫たち』(白石和彌監督)には自らも出演しており、撮影がつらくて泣いていた若手女優を現場で抱きしめて励ましたという話も紹介されている。
映画への恩返し[編集]
白川はロマンポルノについて「青春そのもので、宝物の一つ」と語っている。当時はつらいことの方が多かったとしつつも、「映画の火を絶やしたくない」というスタッフの思いに支えられて続けてきたこと、その小さな一滴が45年かけて大河になったように感じると述べている。偏見と闘いながら現場に立ち続けた草創期の女優ならではの言葉である。
エピソード[編集]
- 1966年に三島由紀夫と対談した際、脱ぐ仕事を続けるよう背中を押されたとされる。白川自身も、ロマンポルノに出たことで三島をはじめ多くの著名人と出会えたことに感謝していると語っている。
- 2010年のリメイク版公開イベントでは、最初にリメイクの話を聞いたときは驚いて半信半疑だったが、監督が中原俊と知って安心したと明かした。新作の出来には「悔しいほど印象的な場面が多い」と太鼓判を押しつつ、ある一点については「負けないわ」と大先輩らしい対抗心ものぞかせた。
- 同イベントで「草食系男子」が流行語になっていた世相に触れ、「男性にはもっと肉食系になってほしい」と呼びかけて会場を沸かせた。
- 2013年の『凶悪』のトークショーでは、夫婦役のジジ・ぶぅ、白石和彌監督とともに登壇。M-1の元相方と映画で夫婦を演じるという縁の深さも話題になった。
- 2020年には「海峡映画祭」で、田中絹代の故郷である下関市を初めて訪れている。
余談[編集]
- 女優を志すきっかけになった市原悦子とは、後年に同じテレビ・舞台の世界で活動する同業者となった。憧れの人と同じ土俵に立ったわけである。
- 60代でM-1に挑戦し、67歳でワハハ本舗に入るなど、新しいことへの腰の軽さは筋金入りである。
- 2016年のリブート企画のイベントでは「自分の話より、若い人たちの話を聞きたくて来た」と語っており、先輩風を吹かせない姿勢が後輩女優たちからも慕われているとされる。
- 公式サイトには「まだまだ活動しています」という見出しが掲げられており、その言葉どおりの現役ぶりである。
