概要[編集]
成人映画(せいじんえいが)とは、映倫の審査で18歳未満の観覧を認めない区分とされて公開される映画、およびそれを前提に作られた作品群を指す語である。区分の正式名称は1998年に「R-18」、2009年に「R18+」へ改められたが、日常語としての「成人映画」は現在も使われている。
詳細[編集]

ジャンル名ではなく区分名[編集]
この語が指しているのは内容の種類ではなく、誰が見られるかという上映の条件である。映倫はかつて対象作品を「18歳未満の者の鑑賞には不適当」と判定しており、その理由は性的な描写に限らず、反社会的な内容や残酷な描写である場合もあった。つまり成人指定を受けた作品がすべて性を主題にしているわけではない。一方で、成人指定を前提に作られ、専門の劇場や指定された上映枠で扱われる作品群が長く存在したため、一般には性的な内容の作品を指す言葉として受け取られることが多い。呼び名が作品の側からではなく流通の条件の側から付けられている点に、この語の性格がある。
映倫の区分と名称の変遷[編集]
映倫の前身である映画倫理規程管理委員会は1949年に発足し、1956年に外部の有識者を委員とする映画倫理管理委員会に改組された。1957年には「成人向映画」という呼称が「成人映画」に改められている。1998年の改定で成人映画は「R-18」となり、一般映画との間に「PG-12」と「R-15」が新設された。2009年4月23日には「映画倫理規程」に代わる「映画倫理綱領」が制定され、委員会は映画倫理委員会に改称、R-18は「R18+」に改められた。2017年4月1日からは一般財団法人映画倫理機構が業務を引き継いでいる。
現在の区分は、誰でも観覧できる「G」、12歳未満は親または保護者の助言・指導が必要な「PG12」、15歳以上が対象の「R15+」、18歳以上が対象の「R18+」の4つである。成人映画に当たるのはR18+で、年齢による入場制限を劇場側が守ることが前提になっている。
ピンク映画の誕生[編集]
日本で成人向けの劇場用作品が独立した市場として成立したのは1960年代前半である。1962年2月27日に公開された『肉体の市場』(小林悟監督、協立映画製作、大蔵映画配給)は、独立系で作られた成人指定の劇映画であり、ピンク映画の第1号とされることが多い。公開直後にわいせつの疑いで警察の摘発を受け、その騒ぎで注目を集めたことが、再編集版のヒットにつながった。ただし当時は「ピンク映画」という呼び名はまだなく、1963年の『情欲の洞窟』を取材した内外タイムスの記者・村井實が「おピンク映画」と書いたのが語源だと言われている。
1963年以降は「エロダクション」と呼ばれた独立系の小規模な製作会社が次々に作品を送り出し、成人指定作品の大半を占めるようになった。1965年に成人指定を受けた233本のうち、大手5社の作品は17本にとどまり、残りの多くはピンク映画だった。専門館の数も1968年に約200館、1970年に約220館と増えている。
ピンク映画の製作と興行[編集]
ピンク映画の典型は、予算が約300万円、撮影日数が3日前後、上映時間が60分ほどという条件で作られる作品である。撮影の多くはロケで行われ、作品ごとに一定数の濡れ場を入れることが求められた。こうした条件さえ満たせば題材や演出に口を出されにくかったため、低予算でも作り手の個性が出やすい環境になった。興行は複数の作品を組み合わせる形が基本で、成人映画専門館では新作を含む三本立ての番組が組まれることが多かった。
製作を担ったのは大蔵映画(現在の製作部門はオーピー映画)、新東宝映画(旧・新東宝興業)、国映、新日本映像(ブランド名「エクセス・フィルム」)などである。1970年代には大手系の東活や東映セントラルフィルムも加わった。市場のピークは1980年代前半で、1980年代後半からはアダルトビデオの普及と業界の自主規制により縮小し、1990年には東活が撤退している。2010年代半ば以降は新作の多くをオーピー映画が手がける状態になり、2023年時点で同社の新作は月に1〜2本程度とされる。
日活ロマンポルノ[編集]
日活は経営が行き詰まるなかで1971年に一般映画の製作を止め、同年11月に『団地妻 昼下りの情事』(白川和子主演)と『色暦大奥秘話』(小川節子主演)の2本で日活ロマンポルノを始めた。大手映画会社が成人指定作品を自社の主力として定期的に製作・配給した点で、独立系が中心のピンク映画とは規模が異なる。番組は三本立てで、そのうち1枠には外部から買い取ったピンク映画が充てられることが多かった。社名は1978年に「にっかつ」に変わり、製作は1988年6月で終了、最後の作品は同年5月28日に公開された。翌7月からは系列館を「ロッポニカ」と改めて一般映画路線に戻ったが、半年で打ち切られている。
開始直後の1972年には、警視庁が『恋の狩人 ラブハンター』『OL日記 牝猫の匂い』『女高生芸者』『愛のぬくもり』の4作品をわいせつ図画公然陳列の疑いで摘発し、日活やプリマ企画の関係者に加え、審査した映倫の委員3人も幇助で起訴された(日活ロマンポルノ事件)。1978年6月に東京地方裁判所で全員無罪となり、1980年7月に東京高等裁判所も控訴を棄却して無罪が確定した。事件は約9年に及んだ。
ロマンポルノの作り手[編集]
ロマンポルノは決められた尺と予算、一定の間隔で濡れ場を入れることなど限られた条件のほかは、題材や演出を作り手に任せる体制だった。1972年6月公開の『白い指の戯れ』(村川透監督)は、ロマンポルノとして初めてキネマ旬報ベスト・テンに入った作品である。神代辰巳は『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年)や『四畳半襖の裏張り』(1973年)を撮り、田中登・曽根中生と並んでロマンポルノを代表する監督と見なされた。ほかに小沼勝、村川透、根岸吉太郎、金子修介、石井隆らがロマンポルノを足場にしている。
毎週のように新作を劇場へ送り出す仕組みは、助監督から監督への昇進の機会を継続的に生んだ。東映や松竹がかつて量産体制のなかで若い監督を育てたのと同様に、作品数の多さそのものが人材を育てる条件になっていた。
東映など大手の成人指定作品[編集]
成人指定作品を手がけたのは日活だけではない。東映は1967年の『大奥㊙物語』(中島貞夫監督)以降、成人指定を受ける作品を積極的に製作し、石井輝男は『徳川女系図』(1968年)から『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)までのエログロ路線を手がけた。鈴木則文も『忍びの卍』(1968年)や『温泉みみず芸者』(1971年)を監督している。1971年には池玲子が「東映ポルノの看板スター」として週刊誌に紹介された。こうした路線は「東映ポルノ」と呼ばれ、大手が二本立て興行から一本立て興行へ移る1970年代後半まで続いた。
家庭用ビデオ以降[編集]
1980年代に家庭用ビデオが普及すると、成人向け作品の主な流通経路は劇場から家庭へ移った。劇場は場所を維持する費用が固定でかかるため、観客が減ると作品の数を減らしても採算が改善しにくい。制作の中心がアダルトビデオへ移ったのは、同じ種類の内容をより安く届けられる経路が現れたからである。ピンク映画の市場は1990年代に大きく縮み、日活ロマンポルノも1988年に終わった。
2010年代以降のピンク映画では、すでに知名度があり集客につながるAV女優が主演を務める例が増えた。オーピー映画は2015年の『誘惑遊女 ソラとシド』で撮影・上映を全面的にデジタル化し、一般の映画館向けにR15+版を作って成人館向けのR18+版と並行して公開する「OP PICTURES+」の取り組みを始めた。同じ作品でもR15+版とR18+版とで題名が異なることが多い。
ロマンポルノ・リブートとROMAN PORNO NOW[編集]
日活は2016年、ロマンポルノ45周年に合わせて「日活ロマンポルノ リブートプロジェクト」を立ち上げた。上映時間80分程度、10分に1回の濡れ場という条件のほかは自由という旧来のルールを踏まえ、行定勲『ジムノペディに乱れる』(2016年11月26日公開)、塩田明彦『風に濡れた女』(同12月17日)、白石和彌『牝猫たち』(2017年1月14日)、園子温『アンチポルノ』(同1月28日)、中田秀夫『ホワイトリリー』(同2月11日)の5本が公開された。
50周年に当たる2022年には「ROMAN PORNO NOW」として、松居大悟『手』(9月16日公開、山崎ナオコーラの小説が原作)、白石晃士『愛してる!』(9月30日)、金子修介『百合の雨音』(10月14日)の3本が公開された。金子修介にとっては38年ぶりのロマンポルノだった。
専門館の減少[編集]
成人映画専門館は各地で閉館が続いている。2016年5月31日に飯田橋くらら劇場が閉館した時点で、東京都内に残る成人映画館は上野オークラ劇場、上野オークラ劇場2、上野特選劇場、シネロマン池袋の4館とされた。同じ2016年には沖縄のコザ琉映が7月31日に閉館し、2019年1月時点で国内の営業館は約45館とされる。その後も2023年に札東映画劇場、2024年にテアトル弘前が閉館し、2025年10月31日には熊本県内で唯一の成人映画専門館だった桃劇場(熊本市中央区下通)が、オーナーの後継者が見つからないことを理由に閉館した。那覇市の首里劇場のように、2021年に成人映画館から名画座へ転換した例もある。
東京・上野の上野オークラ劇場は大蔵映画が直営する館で、1951年に東映の封切館として開館した。旧館は2010年8月1日に59年の歴史を閉じ、同年8月4日に上野地下特選劇場の機能も引き継いだ新館が開館した。新館は2025年8月に開館15周年を迎えており、出演者による舞台挨拶なども行われている。
海外の成人映画[編集]
アメリカでは、アメリカ映画協会(MPAA)が1968年11月1日にレーティング制度を導入し、そのなかに「X」の区分があった。Xは協会の登録商標ではなかったため、審査を受けない作品でも製作者が自分で名乗ることができ、ポルノ作品が宣伝に使った結果、X指定はポルノの代名詞になった。1969年の『真夜中のカーボーイ』のように、子ども向けではないもののポルノではない作品がX指定を受けた例もある。この混同を解消するため、MPAAは1990年9月に「NC-17」(17歳以下は入場不可)を新設し、最初のNC-17作品は『ヘンリー&ジューン』(1990年)だった。
アメリカの成人映画専門館は1960年に約20館だったが、1970年には750館に増え、1980年代以降は閉館が相次いで1989年には約250館になったとされる。
主な監督・俳優[編集]
成人映画の現場から出て、一般映画でも評価を得た主な人物は次のとおり。
- 若松孝二 - 1963年『甘い罠』でピンク映画の監督としてデビュー。1965年に『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品されて騒動になり、同年に若松プロダクションを設立した。晩年には『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008年)、『キャタピラー』(2010年)を発表した。2012年没。
- 山本晋也 - ピンク映画の監督として多数の作品を撮り、滝田洋二郎も助監督として付いた。
- 神代辰巳 - 日活ロマンポルノを代表する監督の一人。一般映画では『青春の蹉跌』(1974年)がキネマ旬報ベスト・テン4位に入った。1995年没。
- 根岸吉太郎 - 1978年『オリオンの殺意より 情事の方程式』でロマンポルノの監督としてデビュー。のちに『遠雷』(1981年)、『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』(2009年、モントリオール世界映画祭最優秀監督賞)を撮った。
- 高橋伴明 - 1979年に高橋プロを設立して50数本のピンク映画を発表し、中村幻児とともにピンク映画のニューウェーブと呼ばれた。初の一般映画『TATTOO〈刺青〉あり』(1982年)はキネマ旬報ベスト・テン6位に入った。
- 滝田洋二郎 - 向井プロで向井寛や山本晋也の助監督を務め、1981年『痴漢女教師』で監督デビュー。『おくりびと』で2009年の第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
- 周防正行 - 1984年のピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』で監督デビュー。小津安二郎へのオマージュを含む作品だった。のちに『Shall we ダンス?』(1996年)などを撮った。
- 黒沢清 - 1983年のピンク映画『神田川淫乱戦争』で監督デビュー。1984年にロマンポルノとして撮った作品はにっかつが納品を拒み、追加撮影を経て『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985年)として一般公開された。2020年に『スパイの妻〈劇場版〉』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。
- 白川和子 - ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』の主演女優。
1990年代のピンク映画では、佐野和宏・サトウトシキ・瀬々敬久・佐藤寿保の4人が「ピンク四天王」と呼ばれた。1989年にはピンク映画を対象とする賞「ピンク大賞」が始まっている。
余談[編集]
- 成人指定という制度は表現を制限する仕組みであると同時に、その区分の内側であれば上映を認める仕組みでもある。日活ロマンポルノ事件では、映倫の審査を通った作品が摘発され、審査した委員まで起訴された。区分制度の「許可」の側面がそのまま裁判で問われた例である。
- ピンク映画と日活ロマンポルノは混同されやすいが、前者は成人映画専門館に掛けるために独立系が作った作品群、後者は大手映画会社が自社の配給網で展開した作品群であり、製作と流通の規模が異なる。ただしロマンポルノの三本立て番組の1枠にはピンク映画が組み込まれることが多く、両者は興行の現場で隣り合っていた。
- 上野オークラ劇場の運営元である大蔵映画は、ピンク映画第1号とされる『肉体の市場』の配給元でもある。最初期の作品を扱った会社が、2020年代にも新作を製作し、自社の劇場で上映している。
- 「ピンク映画」という呼び名は作品を作った側ではなく、取材した夕刊紙の記者が付けたものだとされる。「成人映画」が審査の区分から来た呼び名であるのと同じく、このジャンルの名前はどちらも外側から付けられている。