概要[編集]
ピンク映画(ピンクえいが)とは、日本の独立系映画会社が製作・配給する、ヌードや性的な描写を含む劇場用の成人映画のジャンルである。大手映画会社(松竹・東宝・東映・日活・大映)以外の中小プロダクションによって低予算で作られたソフトコアの作品を指し、1962年の『肉体の市場』(小林悟監督)が最初の本格的なピンク映画とされる[1]。上映時間はおおむね60分前後で、ピンク映画専門の成人映画館で3本立てなどの形で上映されてきた。
かつては「エロダクション」(エロ+プロダクション)や、製作費の相場から「300万円映画」とも呼ばれた。「ピンク映画」という呼称は1963年ごろに記者の村井実が使い始めたとされ、1960年代後半から一般に広まった[1]。大手の作品を「ポルノ」と呼ぶ呼び分けが定着したのは、東映がポルノという呼称を使い始め、1971年に日活がロマンポルノを始めて以降であり、それ以前は特別に区別されていない。
現在の製作・配給会社としては新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画)、新日本映像(エクセス・フィルム)があり、製作のみを行う国映もある[1]。映画監督としては若松孝二、女優としては新高恵子・香取環らが初期の代表的な存在として知られる。
歴史[編集]
誕生と1960年代[編集]
1962年、小林悟監督の独立系作品『肉体の市場』が約800万円の製作費で1億円を超える興行収入を上げたとされ、これをきっかけに中小プロダクションによる低予算の成人映画が相次いで作られるようになった[1]。テレビの普及で大手映画会社の観客が減るなか、少ない予算と短い撮影期間で確実に客を集められる作品として本数を伸ばした。若松孝二はこの時期から政治性の強い作品を発表し、ピンク映画を作家性の場として用いた代表的な監督となった。
ロマンポルノの登場と1970年代[編集]
1971年11月、経営難に陥っていた日活が成人映画路線「ロマンポルノ」を開始し、大手資本による成人映画が作られるようになった(ロマンポルノは1988年まで続いた)[1]。以後、大手の作品を「ポルノ」、独立系の作品を「ピンク映画」と呼び分ける慣習が定着した。
アダルトビデオの台頭と1980年代[編集]
1980年代初めに家庭用ビデオデッキが普及すると、アダルトビデオが急速に観客を奪い、1982年ごろには劇場の成人映画と市場を二分する規模になったとされる[1]。1984年と1988年には映倫の審査基準が厳しくなったことも劇場興行に打撃を与えた。一方でこの時期のピンク映画は若手監督の登竜門としても機能し、滝田洋二郎・周防正行・黒沢清らがピンク映画で監督としての経歴を始めている。
「ピンク四天王」と1990年代以降[編集]
1980年代後半から1990年代にかけて、佐藤寿保(1985年デビュー)、佐野和宏・サトウトシキ・瀬々敬久(いずれも1989年デビュー)の4人の監督が、個人的・実験的な作風で注目を集め、「ピンク四天王」と呼ばれた。この呼び名はもともと、従来の観客層に受けない作品に不満を持った映画館主が皮肉を込めて付けたものとされる[1]。1989年には業界誌『PG』の主催で年間の優秀作を表彰する「ピンク大賞」が始まった。
撮影は2000年代初めまでほぼすべて35mmフィルムで行われ、撮影期間は長くても1週間程度とされる[1]。その後はデジタル撮影への移行が進み、成人映画館の減少で上映の場は縮小したが、ピンク映画の製作自体は続いている。
余談[編集]
- 製作費の安さから「300万円映画」と呼ばれた時期があり、限られた予算と日数の中で撮影現場の技術を身につけた監督・スタッフが一般映画に移る例が多かった。
- 「ピンク四天王」の呼び名は皮肉から生まれたが、後に一般映画に進んだ瀬々敬久らの活躍で、作家性の強い監督群を指す肯定的な呼び名として定着した。