Masako Mori
もり まさこ
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引退会見に臨む森昌子(2019年3月。出典:デイリースポーツ)
本名 森田昌子(もりた まさこ)
誕生日 1958年10月13日
年齢 68歳
出身地 栃木県宇都宮市
国籍 日本
家族 元夫:森進一(歌手、1986年 - 2005年)
長男:Taka(ONE OK ROCK)
三男:Hiro(MY FIRST STORY)
血液型 A型
学歴 堀越高等学校 卒業
職業 元歌手・女優・タレント
肩書 『スター誕生!』初代グランドチャンピオン、「花の中三トリオ」の一人
活動期間 1972年 - 1986年、2006年 - 2019年
代表的な実績 「せんせい」(1972年)、「哀しみ本線日本海」(1981年)、「立待岬」(1982年)、「越冬つばめ」(1983年)、NHK紅白歌合戦紅組司会(1985年)
受賞 日本レコード大賞 新人賞(1972年)、日本レコード大賞 金賞(1981年)、古賀政男記念音楽大賞 大賞(1982年)、日本レコード大賞 最優秀歌唱賞(1983年)、松尾芸能賞 優秀賞(2018年)
事務所 ホリプロ(1972年 - 2008年)、おんがく工房(2008年 - 2019年、個人事務所)
関連活動 花の中三トリオ(山口百恵、桜田淳子)
あだ名 マチャコ(美空ひばりからの呼び名)
その他 2019年12月25日、故郷・宇都宮でのラストコンサートをもって芸能界を引退


概要[編集]

森昌子(もり まさこ、1958年10月13日 - )とは、栃木県宇都宮市出身の元歌手である。1971年に日本テレビ『スター誕生!』の初代グランドチャンピオンとなり、翌1972年に13歳で「せんせい」でデビュー。山口百恵・桜田淳子と「花の中三トリオ」と呼ばれた。「越冬つばめ」などの演歌でも成功し、2度の引退を経て2019年末に芸能界を去った。

詳細[編集]

『スター誕生!』が生んだ最初のスター[編集]

『スター誕生!』は1971年10月に始まった日本テレビの視聴者参加型オーディション番組で、作詞家の阿久悠が企画と審査に関わっていた。森はこの番組の放送開始直後、1971年10月下旬に13歳で登場し、初代グランドチャンピオンになった。予選でも決戦大会でも歌ったのは都はるみの「涙の連絡船」で、中学生とは思えない歌唱に、スカウトのプラカードが13本挙がったとされる。その中から選んだのがホリプロだった。

応募したのは本人ではなく、人見知りを克服させたいと考えた叔母で、本人には内緒で応募し、当日も内緒で会場に連れて行ったという。小学4年で宇都宮から東京に移った森は、転校先でいじめを受け、学校を休みがちだった時期があったとされる。オーディション番組の看板を背負うスターの出発点としては、なかなか意外な経歴である。

デビュー曲「せんせい」[編集]

1972年7月1日、徳間音工から「せんせい」でデビューした。作詞は阿久悠、作曲は遠藤実。キャッチフレーズは「あなたのクラスメート」。ホリプロ側は舟木一夫の「高校三年生」の女の子版を狙っていたとされ、慕う先生への淡い思いを歌った歌詞は、まさに中学生の等身大だった。

結果はオリコン週間3位、在位中の売上51.4万枚のヒット。番組から生まれた最初のヒット曲であり、森自身にとっても生涯最大のヒットになった。この年の日本レコード大賞新人賞をはじめ、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞などの新人賞を総なめにしている。レコーディングは2回目でOKが出たが、歌い直しは本人の希望だったという。後年の評論では、こぶしを効かせすぎず語りかけるように歌う唱法が「どんな大会場でも耳元で歌われているよう」と評された。

花の中三トリオ[編集]

同じ学年で、同じ『スター誕生!』出身の山口百恵、桜田淳子と並べて「花の中三トリオ」と呼ばれた。命名は1973年8月26日の『スター誕生!』100回記念特番で、チーフ・プロデューサーの池田文雄が美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの「三人娘」にあやかってつけたもの。3人の中で一番早くデビューしたのが森だった。

呼び名は学年が上がるたびに「高一トリオ」「高二トリオ」と変わり、1975年には3人主演の映画『花の高2トリオ 初恋時代』も公開された。1974年から1979年まで、3人そろってNHK紅白歌合戦に6年連続出場している。1977年3月の高校卒業時には日本武道館で「解散コンサート」が開かれたが、正式なユニットではなかったので「解散」は厳密には不正確という指摘もある。

同じホリプロ所属だった山口百恵は、デビュー前に森の付き人を務め、森の家に下宿していたこともあるとされる。なお、トリオ時代の3人の関係について、森自身の発言は時期によって食い違いがあることも指摘されている。2019年の引退会見では、年を取ったら桜田・山口と3人で「おばあちゃんトリオ」として集まりたい、と笑顔で語っていた。

アイドルから演歌の歌姫へ[編集]

デビュー時から「第2の美空ひばり」とも呼ばれた歌唱力の持ち主で、1970年代後半からは演歌路線を本格化させた。1977年の「なみだの桟橋」、1978年の「津和野ひとり」「彼岸花」を経て、1980年には「波止場通りなみだ町」で日本作詩大賞大衆賞を受賞。

決定打になったのが1980年代前半の三連打で、1981年の「哀しみ本線日本海」(作詞:荒木とよひさ、作曲:浜圭介)で日本レコード大賞金賞、1982年の「立待岬」(作詞:吉田旺、作曲:浜圭介)で古賀政男記念音楽大賞の大賞、1983年の「越冬つばめ」(作詞:石原信一、作曲:篠原義彦)で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。「越冬つばめ」の作曲者・篠原義彦は、関西のタレントとしても知られるシンガーソングライター円広志の本名である。サビの「ヒュルリ ヒュルリララ」は、今でも物まねやカラオケでおなじみのフレーズだ。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1958年10月13日、栃木県宇都宮市で生まれた。本名は森田昌子。宇都宮市立の小学校に通っていたが、小学4年生のときに東京都へ転居し、港区立の小学校を卒業。港区立港中学校在学中にデビューし、高校は小野学園女子高等学校から堀越高等学校へ転校して1977年に卒業した。

1971年 - 1979年:デビューとトリオ時代[編集]

1971年、『スター誕生!』初代グランドチャンピオン。1972年7月に「せんせい」でデビューし、新人賞レースを席巻した。1973年には映画『男じゃないか・闘志満々』で映画デビューし、『としごろ』で主演。同年末の第24回NHK紅白歌合戦に15歳で初出場し、当時の女性歌手として最年少記録となった。

1976年には大河ドラマ『風と雲と虹と』に出演し、1978年には主演映画『お嫁にゆきます』が公開されるなど、女優としても活動した。19歳のときには単身でロサンゼルスを旅行したというエピソードもある。

1980年 - 1986年:演歌の第一線[編集]

1981年の第32回紅白では「哀しみ本線日本海」で、出場9回目にして23歳で初めて紅組のトリを務めた。1983年の「越冬つばめ」は第34回紅白でも歌われ、1984年1月には『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に登場している。1984年の「海へ来て」はNHK『みんなのうた』で放送された。

1985年の第36回紅白では、紅組司会と2度目の紅組トリを同時に担当。歌唱曲は「愛傷歌」(作詞:石本美由起、作曲:三木たかし)だった。歌手としての頂点の一つといえる舞台だが、翌年には結婚・引退が待っていた。

1986年:森進一と結婚、1度目の引退[編集]

1986年、歌手の森進一との結婚を機に芸能界を引退した。同年8月には引退記念盤『いつまでも ありがとう そして、今…さようなら』を発売し、10月1日に結婚。以後は家庭に入って3人の息子を育てた。紅白の常連歌手同士の結婚で、当時は「おしどり夫婦」として扱われた。

2001年 - 2005年:紅白で再登場、離婚[編集]

2001年の第52回紅白に出場し、「せんせい」「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」のメドレーを披露した。これをきっかけに、夫婦での「デュエット歌手」として活動するようになり、ジョイントコンサートが増えた。

一方で、子どもと向き合う時間が減ったことを気に病み、心身の調子を崩したと報じられている。2005年2月に過呼吸で倒れて入院し、同年4月に離婚が成立した。森進一は2020年11月のフジテレビ系『まつもtoなかい』で、当時は「別れたくなかった」と初めて明かし、三男のHiroが両親に離婚しないよう頼んでいたことも語っている。離婚の理由について、双方から詳しい説明は出ていない。

2006年 - 2018年:ソロ歌手として復帰[編集]

2006年3月、ホリプロからソロ歌手として活動を再開すると発表。4月には初のエッセー集『明日へ』(幻冬舎)を刊行し、20年ぶりの新曲「バラ色の未来」を発売した。息子たちから「母さんの歌が聴きたい」と言われたことが背中を押したとされる。のちには、復帰の理由として「生活のため」とも語っている。同年末の第57回紅白にも5年ぶりに出場した。

2007年にはNHK連続テレビ小説『どんど晴れ』に出演し、女優業も再開。ただ同年9月には急性肺炎で入院し、ツアーを中止している。2008年3月にホリプロを退社し、4月に個人事務所「おんがく工房」を設立。レコード会社は2011年にホリデージャパン、2012年にキングレコードへ移った。

2010年5月には子宮の全摘出手術を受け、退院後の会見で、数年前から更年期障害や貧血、更年期特有のうつ状態に悩んでいたことを公表した。

2010年代にはバラエティ番組への出演も増え、物まねやトークで「歌のうまい面白い人」として新たな人気を得た。2010年代後半にはフジテレビ系『ダウンタウンなう』のレギュラーナレーションを担当。2016年にはデビュー45周年記念アルバム『百年の恋歌〜時を超えて〜』を発表し、2018年には松尾芸能賞優秀賞を受賞した。

2019年:2度目の引退[編集]

2019年3月25日、年内いっぱいでの芸能界引退を報道各社へのファクスで発表した。文面には「どうか私の我儘を許してください」とあった。翌26日には埼玉県飯能市でのコンサートで、約2000人のファンに直接引退を報告。28日の会見では、引退は2度目なので「3度目はございません」と笑わせた。

理由については、還暦を迎えて残りの人生を真剣に考えたこと、取材で「50周年に向けての目標は」と聞かれるたびに答えに詰まる苦しさがあったことを挙げ、「芸能活動以外の事に時間を使って人生を充実させたい」と説明した。会見当日は亡父の命日でもあった。息子たちには多忙で年に1回会えるかどうかのため、メールで報告したという。

2018年10月から続いた還暦記念ツアーは130公演を超える規模になった。11月には『ダウンタウンなう』で、引退の舞台は紅白ではないかと松本人志に詰め寄られ、「丁寧にお断りします」と返している。12月24日のLINE CUBE SHIBUYA公演を経て、12月25日、故郷の宇都宮市文化会館で「森昌子ラストコンサート〜爆笑コントで綴る昭和歌謡パート3〜」を開催。歌、コント、物まねを詰め込んだ47年間の集大成で、芸能活動に幕を下ろした。個人事務所も2019年12月31日までとされた。

2020年以降:引退後[編集]

引退後は芸能活動に復帰しておらず、テレビやSNSでの発信もない。2020年2月・3月には、引退発表前から契約していたJAさいたまの招待制イベントに出演することが報じられたが、事務所は「復帰というわけではありません」とし、一般客が見られる公演は宇都宮が最後だと説明していた。

キングレコードからは2020年、2021年、2022年に全曲集が発売されている。2021年の報道では、引退理由の一つが母親と過ごす時間を作ることで、母との暮らしを楽しんでおり、音楽番組からのオファーがあっても受ける気はないと伝えられた。2026年10月時点でも、本人による公の場での活動や、YouTube・Instagramなどの公式アカウント開設は確認されていない。

2022年には、三男Hiroのバンド関係者が運営するYouTubeチャンネルでスタッフが「森昌子との共演」を提案し、Hiroが一人で母を訪ねたものの共演は実現しなかった経緯が動画化され、「引退した母を再生数のために使うのか」といった反応も出て話題になった。2025年12月には長男Takaが自身のInstagramで次男も音楽活動をしていると公表し、「家族全員がシンガー」という状況が改めて注目された。

人物[編集]

  • 子どもの頃は激しい人見知りだったとされるが、デビュー後はいたずら好きで知られ、八代亜紀へのいたずらや、アグネス・チャンとの生放送中のいたずらが語り草になっている。
  • 物まねの腕前は本職の芸人に匹敵するといわれ、南沙織、あべ静江、小柳ルミ子らの歌まねを得意とした。八代亜紀や仲間由紀恵の物まねも持ちネタ。1973年に始まったフジテレビ系「ものまね王座決定戦」では初代チャンピオンになっている。
  • 『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(萩本欽一)、『カックラキン大放送!!』、『笑っていいとも!』、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』の大晦日特番など、歌番組以外のバラエティにも数多く出演した。
  • 美空ひばりにかわいがられ、自宅で歌を教わることもあった。森はひばりを「オネエチャマ」と呼び、ひばりはプライベートで森を「マチャコ」と呼んでいたという。
  • デビュー当時はくせ毛に悩んでショートカットにしたところ「モンチッチみたい」と言われたが、マネージャーがヘアメイクに「ジャネット・リンのイメージで」と頼んだことで、あの髪型がトレードマークになったとされる。
  • 自宅ではテレビに自分の姿が映りそうになると電源を切っていたといい、家庭では歌手ではなく「子どもたちの母親」であることを優先していた。

主な作品[編集]

シングル[編集]

年 タイトル 作詞 / 作曲・備考
1972年 せんせい 阿久悠 / 遠藤実。デビュー曲、オリコン最高3位・51.4万枚
1977年 なみだの桟橋 杉紀彦 / 市川昭介
1978年 津和野ひとり
1978年 彼岸花
1980年 波止場通りなみだ町 日本作詩大賞 大衆賞
1981年 哀しみ本線日本海 荒木とよひさ / 浜圭介。レコード大賞金賞、紅白初トリ
1982年 立待岬 吉田旺 / 浜圭介。古賀政男記念音楽大賞
1983年 越冬つばめ 石原信一 / 篠原義彦(円広志)。レコード大賞最優秀歌唱賞
1984年 海へ来て NHK『みんなのうた』
1985年 愛傷歌 石本美由起 / 三木たかし。紅白で司会とトリ
2006年 バラ色の未来 20年ぶりの新曲、紅白歌唱曲

アルバム(抜粋)[編集]

  • 『いつまでも ありがとう そして、今…さようなら』(1986年)- 1度目の引退時の作品
  • 『百年の恋歌〜時を超えて〜』(2016年)- デビュー45周年記念
  • 全曲集(キングレコード、2020年・2021年・2022年)

映画・ドラマ[編集]

  • 『男じゃないか・闘志満々』(1973年)- 映画デビュー
  • 『としごろ』(1973年)- 主演
  • 『花の高2トリオ 初恋時代』(1975年)- 山口百恵・桜田淳子と共演
  • 『風と雲と虹と』(1976年、NHK大河ドラマ)
  • 『お嫁にゆきます』(1978年)- 主演
  • 『どんど晴れ』(2007年、NHK連続テレビ小説)

著書[編集]

  • 『明日へ』(幻冬舎、2006年)- 初のエッセー集
  • 『それはじんせい』(主婦と生活社、2012年)- 2010年から2011年の連載を再編集
  • 『母親力 息子を「メシが食える男」に育てる』(2017年)- 子育て論

紅白歌合戦と森昌子[編集]

NHK紅白歌合戦は森のキャリアの節目ごとに登場する舞台である。1973年の第24回に15歳で初出場し、当時の女性最年少出場記録を作った。その後は1985年の第36回まで連続出場し、1974年から1979年までは中三トリオの3人がそろって出場している。

1981年の第32回で「哀しみ本線日本海」を歌い、23歳で初の紅組トリ。1985年の第36回では紅組司会(白組司会は鈴木健二)を務めながら「愛傷歌」で2度目のトリを任された。司会とトリの兼任は、歌手として最高ランクの扱いといえる。

結婚引退で一度途切れたものの、2001年の第52回で16年ぶりに戻ってきて、「せんせい」「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」のメドレーを披露。これが夫婦での活動再開のきっかけになった。2006年の第57回では、ソロ復帰後の新曲「バラ色の未来」で5年ぶりの出場を果たし、これが最後の紅白になった。2019年の引退直前に「最後は紅白では」と噂された際には、テレビで「丁寧にお断りします」と明言し、宇都宮のステージを最後に選んでいる。

家族と息子たち[編集]

3人の息子[編集]

森進一との間に3人の息子がいる。長男のTaka(本名:森内貴寛)はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカル(Takahiro Moriuchi)、次男は一般の会社員として報じられてきた人物、三男のHiro(本名:森内寛樹)はバンド「MY FIRST STORY」のボーカル(MY FIRST STORY Official YouTube Channel)。演歌の大御所夫婦の子どもが2人ともロックバンドのフロントマンになったことは、芸能界でもよく話題にされる。

2025年12月、Takaは自身のInstagramで、次男も音楽活動をしていることを公表した。父の森進一は同年の『徹子の部屋』で、大谷翔平がエンゼルス時代に次男の曲を登場曲に使っていたと明かしている。三男Hiroは2024年10月13日、女優の山本舞香との結婚を発表した。この日は山本の誕生日で、偶然にも森昌子の66歳の誕生日でもあった。

「鬼の母」と呼ばれたスパルタ子育て[編集]

子育ての厳しさは本人も公言しており、2017年の著書『母親力』や同年の東洋経済オンラインのインタビューで具体例を語っている。3歳頃までは息子たちを名前ではなく「1番」「2番」「3番」と呼び、兄には敬語を使わせた。門限を破れば家に入れず、1歳過ぎの子を正座させて説教したこともある。箸の持ち方は輪ゴムで矯正した。

家のルールは「18歳になったら家を出て自立すること」。中学3年の終わり頃には「3年後に独立する心の準備を」と伝えていたという。目標は息子を「メシが食える男」にすることで、母親に依存せず、年上を敬い、自分のことは自分でできる大人に育てることだった。実の母からは「鬼のような母親だ」と言われたこともあるそうだ。この子育て論は、息子たちの活躍もあってたびたび記事やテレビで取り上げられたが、一部報道では「しつけの範囲を超えている」「話を盛っている」といった見方も紹介されている。

引退後の家族との距離[編集]

2019年の引退時、息子たちは多忙で年に1回会えるかどうかの状況だと本人が語っていた。2022年には三男Hiroが、母とはしばらく直接会っていなかったと話す場面がYouTubeで公開されている。一方で、Hiroは2019年の『HEY! HEY! NEO!』でダウンタウンから母の話題を振られ、「両親ともにいるので」と父の存在も強調して笑いを取るなど、家族ネタを明るく扱っている。

よくある質問[編集]

Q. 森昌子は何者?

A. 1970年代から活躍した歌手。1971年に『スター誕生!』の初代グランドチャンピオンとなり、1972年に13歳で「せんせい」でデビューした。山口百恵・桜田淳子と「花の中三トリオ」と呼ばれ、のちに「越冬つばめ」などの演歌でも成功した。2019年末に芸能界を引退している。

Q. 現在は何してる?

A. 2019年12月25日のラストコンサートで芸能界を引退してからは、表立った活動をしていない。テレビ出演やSNSでの発信もなく、2021年の報道では母親との時間を大切にしていると伝えられた。

Q. 本名は?

A. 森田昌子(もりた まさこ)。

Q. 息子はONE OK ROCKのTaka?

A. そう。長男がONE OK ROCKのボーカルTaka、三男がMY FIRST STORYのボーカルHiroで、父は森進一。次男も音楽活動をしていることが2025年にTakaによって公表された。

Q. 森進一とはいつ結婚・離婚した?

A. 1986年10月1日に結婚し、それに合わせて1度目の引退をした。2005年4月に離婚が成立し、翌2006年にソロ歌手として復帰している。

Q. 代表曲は?

A. デビュー曲の「せんせい」(1972年)が最大のヒット。演歌では「哀しみ本線日本海」(1981年)、「立待岬」(1982年)、「越冬つばめ」(1983年)が代表曲で、いずれも大きな賞を受けている。

Q. どこで聴ける?

A. CDではキングレコードから全曲集が2020年から2022年にかけて発売されている。配信の取り扱い状況は時期やサービスによって変わるため、各音楽配信サービスで「森昌子」と検索して確認するのが確実。

Q. 引退は何回した?

A. 2回。1986年の結婚時と、2019年の還暦後。2019年の会見では「3度目はございません」と話している。

炎上とバズ[編集]

スパルタ子育て論への賛否[編集]

著書やインタビューで語った「番号呼び」「門限破りは家に入れない」などの子育て法は、息子たちの成功例として好意的に紹介される一方、「厳しすぎる」とする声もあり、週刊誌でもたびたび取り上げられた。2024年11月には、孫の面倒は見ないという趣旨の森の過去の発言を、上沼恵美子が番組で話題にしたことが週刊女性PRIMEで報じられている。

引退後の「残業」公演[編集]

2019年12月、週刊女性は、年内引退のはずの森が2020年2月・3月に埼玉県でのJA主催イベントに出演予定だと報じた。事務所は、引退発表前から決まっていた非公開の招待制公演で、「復帰というわけではありません」と説明した。

余談[編集]

  • 『スター誕生!』の「第1回チャンピオン」を誰とするかには資料によってぶれがあり、森とは別の名前を挙げる記述もある。ただし一般には「スタ誕最初のスター=森昌子」で通っている。
  • 「越冬つばめ」は後年も多くの歌手にカバーされ、2025年にはボーカロイドの初音ミクによるカバーも配信された。昭和演歌の名曲がネット音楽の世界にまで流れ着いている。
  • 2001年の紅白をきっかけに始まった夫婦のジョイントコンサートは、子どもと過ごす時間が減った原因として、のちの体調不良や離婚の背景の一つに挙げられることがある。
  • 三男Hiroの結婚発表日(2024年10月13日)は森の66歳の誕生日と重なった。本人はすでに引退していたが、ファンサイトには誕生日を祝うメッセージが集まったという。
  • 2019年のラストコンサートのタイトルは「爆笑コントで綴る昭和歌謡」。演歌の大物の引退公演としてはかなり異色で、物まね・コントで笑わせ続けた後半生の芸風をそのまま持ち込んだ。
  • 50周年を目前にしての引退だったため、「あと数年で50周年だったのに」と惜しむ声も多かった。本人はまさにその「50周年の目標」を聞かれることが引退理由の一つだったと語っている。

外部リンク[編集]

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