Kinichi Hagimoto
はぎもと きんいち
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萩本欽一(出典:Smart FLASH)
本名 萩本欽一
誕生日 1941年5月7日
年齢 85歳
出身地 東京都下谷区稲荷町(現・台東区東上野)
国籍 日本
家族 妻・澄子(元浅草東洋劇場の踊り子、2020年死去)、息子3人
血液型 A型
学歴 駒込高等学校 卒業、駒澤大学仏教学部 中退(2015年入学、2019年自主退学)
職業 コメディアン、タレント、司会者、演出家
肩書 欽ちゃん劇団 主宰、茨城ゴールデンゴールズ創設者
活動期間 1959年頃 -
代表的な実績 コント55号(1966年 -)、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)、『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日)、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS)、『全日本仮装大賞』(日本テレビ、1979年 -)
受賞 ゴールデンアロー賞特別賞(1969年)、ブルーリボン賞特別賞(1994年)ほか
事務所 浅井企画(個人事務所:萩本企画)
関連活動 コント55号、欽ちゃんファミリー、欽ちゃん劇団
別名 欽ちゃん
あだ名 欽ちゃん、大将、欽督(野球チームでの呼び名)
その他 「視聴率100%男」と呼ばれた
リンク 萩本企画


概要[編集]

萩本欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )とは、東京都出身の日本のコメディアン・タレント・司会者である。愛称は「欽ちゃん」。1966年に坂上二郎とコント55号を結成して一世を風靡し、1980年代には冠番組の視聴率を合わせると100%に届くとして「視聴率100%男」と呼ばれた。『全日本仮装大賞』の司会や、素人・若手を次々にスターにした「欽ちゃんファミリー」の親分としても知られる。

詳細[編集]

コント55号で「動く笑い」を持ち込む[編集]

萩本の名を一気に広めたのが、浅草の先輩芸人・坂上二郎とのコンビ「コント55号」である。それまでの舞台コントは決まった台本をきっちり演じるものが主流だったが、55号は萩本がアドリブで無茶ぶりを重ね、坂上が汗だくで振り回されるという、ほとんど格闘技のようなスタイルだった。萩本が舞台を所狭しと走り回り、カメラが追いきれなくなるほどだったという逸話は今でも語り草である。

1960年代後半にはテレビに引っ張りだこになり、『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)、『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』(日本テレビ)などの看板番組を抱えた。土曜夜8時枠では、のちにザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』と視聴率を争うことになる。萩本の「なんでそうなるの!」は、のちに自伝のタイトルにもなった代表的なフレーズである。

「視聴率100%男」の時代[編集]

コント55号の人気が落ち着いた1970年代半ば、萩本はピンの司会者として第二の黄金期を迎える。ラジオ発の投稿バラエティ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(欽ドン、1975年〜、フジテレビ)、ホームドラマ仕立てのバラエティ『欽ちゃんのどこまでやるの!』(欽どこ、1976年〜、テレビ朝日)、そして『欽ちゃんの週刊欽曜日』(1982年〜、TBS)。この3本がいずれも高視聴率を連発し、合計すると100%に達するという計算から「視聴率100%男」の異名がついた。

民放3局でそれぞれ看板番組を持ち、その全部が当たるというのは前代未聞だった。番組の多くで萩本は出演だけでなく企画・構成・演出にも深く関わっており、「テレビの作り手」としての評価も高い。2024年刊行の太田省一『萩本欽一 昭和をつくった男』(ちくま新書)は、萩本を昭和のテレビの笑いのあり方を変えた人物として論じている。

素人とファミリーをスターにする[編集]

萩本の番組の特徴は、プロの芸人ではなく素人や無名の若手を主役に据えたことである。欽ドンでは視聴者からのはがきネタを、欽どこでは素人っぽさを残した若手を前面に出し、彼らが萩本のツッコミを受けるうちに一人前の芸能人に育っていった。こうして生まれた人脈は「欽ちゃんファミリー」と総称される。

代表格が『欽ドン!良い子悪い子普通の子』から生まれたイモ欽トリオ(山口良一・西山浩司・長江健次)で、1981年の「ハイスクールララバイ」は大ヒットを記録した。欽どこからは見栄晴、わらべ(高部知子・倉沢淳美・高橋真美)、週刊欽曜日などからは小西博之らが出た。関根勤・小堺一機、のちにはCHA-CHA(勝俣州和ら)やTake2(東貴博・深沢邦之)、はしのえみらもファミリーに数えられる。正式な「弟子」として認められているのは斉藤清六ただ一人とされる。

『全日本仮装大賞』の顔[編集]

1979年、NHK紅白歌合戦の裏番組として始まった『全日本仮装大賞』(日本テレビ)で萩本は第1回から司会を務め、企画・構成にも関わってきた。素人が手作りの仮装とパフォーマンスで競い、点数ランプが合格ラインに届くかどうかで一喜一憂する、というシンプルな形式は40年以上続いている。のちにSMAPの香取慎吾が共同司会に加わり、タイトルも「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」となった。

2021年2月の放送では「今回で私、この番組終わり」と口にし、降板を示唆した。しかし香取は萩本抜きでの続行に乗り気でなく、2024年2月に3年ぶりとなる第99回が放送された際も萩本は香取と並んで登場。2025年1月には記念の第100回、2026年1月には第101回が放送され、結果として「辞める辞める詐欺」のような形でコンビ司会が続いている。

経歴[編集]

生い立ちと貧乏時代[編集]

1941年5月7日、東京市下谷区稲荷町(現在の台東区東上野)に生まれ、浦和市(現・さいたま市)で育った。1952年、萩本が小学5年生のときに父の会社が倒産。以後は連日のように借金取りが押しかける生活になり、長屋暮らしを経て、高校時代には一家が夜逃げ同然に離散し、両親は父の郷里の香川へ帰ったという。

この貧乏体験は萩本の芸と人生観に大きく影響しており、「お金のためにやる」ことへの独特の距離感や、運を大事にする考え方の原点として本人がたびたび語っている。

浅草東洋劇場での下積み[編集]

1960年に駒込高校を卒業すると、浅草のコメディアン・大宮敏充への入門を考えたが直前でやめ、近くの浅草・東洋劇場に研究生として入った。ここで池信一、石田英二、東八郎らに指導を受け、のちにビートたけしの師匠となる深見千三郎にもかわいがられた。

ところが入団当初の萩本は極度のあがり症で、セリフがまともに言えなかった。演出家の緑川士朗から「君は才能がないからやめたほうがいい」と引導を渡されかけたが、池信一の説得で残留。のちに「才能はないが、あの『はい』という返事は気持ちがいい」と評価されていたことを知り、奮起したという。この「才能がないと言われた」話は、萩本が後年の講演やインタビューで繰り返し語る原点エピソードである。

熱海からの再起、コント55号結成[編集]

1960年代前半はテレビの仕事もうまくいかず、1965年ごろには静岡・熱海のつるやホテルでショーの仕事をしながら再起をうかがっていた。自作のコント「机」を売り込むために帰京したところ、浅草時代の先輩・坂上二郎から電話があり、一緒にやろうという話になった。こうして1966年にコント55号が誕生する。

55号は日劇などの舞台からテレビへ一気に進出し、1969年にはゴールデンアロー賞特別賞を受賞。映画『手』(1969年)、『俺は眠たかった!!』(1970年)などにも関わった。なお『裏番組をぶっとばせ!!』で流行した「野球拳」について、萩本自身は当時から汚れ役として嫌っていたとされ、2005年には発祥の地とされる愛媛・松山の祭りで謝罪している。

冠番組の黄金期と「充電」[編集]

1972年にニッポン放送で始まったラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』がテレビ化され、1975年に欽ドンがスタート。翌1976年に欽どこ、1982年に週刊欽曜日が始まり、1980年代前半に「視聴率100%男」と呼ばれる絶頂期を迎えた。1978年には日本テレビの第1回『24時間テレビ 愛は地球を救う』で総合司会も担当している。

1985年3月、萩本は「充電」を理由にレギュラー番組をほぼすべて降板し、半年ほど休養に入った。絶頂期での突然の休業は大きなニュースになったが、仮装大賞の司会だけは続けた。

演出家・座長として[編集]

1990年代以降は表舞台の露出を絞り、1991年に旗揚げした「欽ちゃん劇団」で若手の育成と演出に力を入れた。1998年には長野オリンピックの閉会式で総合司会を務め、台本にないアドリブを入れたことでも話題になった。萩本の母親が、この閉会式で初めて息子の仕事を認めてくれたという話も残っている。

2003年からは東京・明治座で不定期に座長公演を行ったが、「大きなステージでは動けない」として2014年3月の公演を最後に大劇場公演からの引退を表明した。

野球と大学、60代・70代の挑戦[編集]

2005年1月、64歳でクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、初代監督に就任した(詳しくは後述)。2007年には『24時間テレビ』のチャリティーマラソンランナーに66歳で挑み、70kmを完走したが、放送時間内のゴールには間に合わず、後続番組の中でゴールした。

2015年4月、73歳で駒澤大学仏教学部に社会人入試で合格し入学。「ボケ防止」を兼ねた受験勉強だったと本人は語っている。学生生活は大きな話題になり、その体験は著書『欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。 73歳からの挑戦』(文藝春秋)にまとめられた。2019年5月、仕事との両立が難しくなったことなどから自主退学している。

80代、YouTuberに[編集]

2020年8月、長年連れ添った妻・澄子をがんで亡くす。翌2021年には仮装大賞の降板を口にし、NHKラジオの番組なども手放した。その代わりに始めたのがYouTubeで、同年9月ごろから「欽ちゃん80歳の挑戦!」として本格的に動画・生配信を開始した(詳しくは後述)。

2022年7月には軽い脳梗塞で約1週間入院したが、大きな後遺症はなく仕事に復帰。同年8月には新型コロナウイルスに感染し、高齢と持病を考慮して念のため入院した。

人物[編集]

  • 自分を「才能のない人間」と位置づけ、そのぶん「運」を大事にする人として知られる。売れるために必要なものとして「運、才能、努力」を挙げ、競争相手の少ない場所を選んで「そこで一番になる」のが自分のやり方だと語っている。
  • 番組作りでは演者に理由を説明せずダメ出しをし、本人が気づくまで待つタイプとされる。関根勤のようにほぼ「放し飼い」で伸ばした例もあれば、見栄晴のように徹底的に指導した例もあるという。
  • 浅草時代の「師匠」たちへの恩義を大切にしており、取材ではしばしば池信一や東八郎の名前を挙げる。

家族[編集]

妻・澄子(スミちゃん)[編集]

妻の澄子は、萩本が18歳で入った浅草東洋劇場の踊り子で、劇場のトップスターだった。萩本より3歳年上で、新人の萩本にとっては「雲の上の人」で、目を合わせることもできなかったという。売れない時期を支えた存在で、のちに結婚。結婚の公表は1976年で、人気絶頂期にもかかわらず長く妻を表に出さなかったことでも知られる。夫妻の間には3人の息子がいる。

澄子は約4年間のがん闘病の末、2020年8月下旬に82歳で亡くなった。萩本はのちに、妻との日々をつづった『ありがとうだよ スミちゃん 欽ちゃんの愛妻物語』(文藝春秋)を刊行している。

ドラマ化[編集]

2024年8月31日、『24時間テレビ47』(日本テレビ)の中でスペシャルドラマ『欽ちゃんのスミちゃん 〜萩本欽一を愛した女性〜』が放送された。萩本役を伊藤淳史、澄子役を波瑠が演じ、香取慎吾が萩本を長年支えるマネージャー役で出演した。劇中には第1回『24時間テレビ』の映像や、未公開の舞台裏映像も盛り込まれた。

主な出演[編集]

テレビ番組[編集]

年 番組 局 備考
1968年 - 『コント55号の世界は笑う』 フジテレビ コント55号として
1969年 - 『コント55号!裏番組をぶっとばせ!!』 日本テレビ 「野球拳」が流行
1975年 - 『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(欽ドン) フジテレビ ラジオ版から移行
1976年 - 1986年 『欽ちゃんのどこまでやるの!』(欽どこ) テレビ朝日 わらべ・見栄晴らが登場
1978年 『24時間テレビ 愛は地球を救う』 日本テレビ 第1回の総合司会
1979年 - 『全日本仮装大賞』 日本テレビ 第1回から司会
1981年 - 『欽ドン!良い子悪い子普通の子』 フジテレビ イモ欽トリオを輩出
1982年 - 1986年 『欽ちゃんの週刊欽曜日』 TBS 「視聴率100%男」の一角
2007年 『24時間テレビ』 日本テレビ チャリティーマラソン70km
2025年 『83歳の欽ちゃん!最後の新番組 あの場所に1000人で集まろうか?』 日本テレビ 関東ローカル
2025年 - 『9階のハギモトさん!』 BS日テレ ノースポンサー・ノーギャラ

ラジオ[編集]

  • 『欽ちゃんのドンといってみよう!』(1972年 -、ニッポン放送)
  • 『欽のラジオ』(2025年3月・9月、NHKラジオ第1)
  • 『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』(2025年12月、ニッポン放送)

著書(一部)[編集]

  • 『なんでそうなるの! 萩本欽一自伝』
  • 『欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。 73歳からの挑戦』(文藝春秋)
  • 『ありがとうだよ スミちゃん 欽ちゃんの愛妻物語』(文藝春秋)

欽ちゃんファミリー[編集]

萩本の番組から巣立った芸能人は数多く、ゆるやかに「欽ちゃんファミリー」と呼ばれている。代表的な顔ぶれと出身番組は次のとおり。

名前 主な出身番組・ユニット
イモ欽トリオ(山口良一=ヨシオ、西山浩司=ワルオ、長江健次=フツオ) 『欽ドン!良い子悪い子普通の子』
見栄晴 『欽ちゃんのどこまでやるの!』の萩本家の息子役
わらべ(高部知子・倉沢淳美・高橋真美) 『欽ちゃんのどこまでやるの!』の三姉妹「のぞみ・かなえ・たまえ」
関根勤・小堺一機 欽どこ・欽ちゃん番組でブレイク
松居直美 『欽ドン!良い子悪い子普通の子』
CHA-CHA(勝俣州和ら) 『欽きらリン530!!』から1988年にデビュー
斉藤清六 萩本の唯一の弟子とされる

2024年の『週刊女性PRIME』の分析によれば、『ダウンタウンDX』の出演回数上位5人のうち3人が欽ちゃんファミリーだったという。萩本が育てたタレントが、平成・令和のバラエティでも主力として残り続けている証左といえる。

イモ欽トリオ[編集]

1981年、フジテレビの『欽ドン!良い子悪い子普通の子』で「良い子・悪い子・普通の子」を演じた3人組が、そのまま歌手デビューしたユニット。デビュー曲「ハイスクールララバイ」は作詞・松本隆、作曲・細野晴臣というテクノポップ色の強い一曲で、大ヒットとなった。番組発のコント・キャラクターがそのままヒットチャートを席巻した例として、今でも語られる。

茨城ゴールデンゴールズ[編集]

2005年1月、萩本は野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成した。同年3月に日本野球連盟への登録が認められ、6月には茨城県のNPO法人となった。萩本は創設者・オーナーであり初代監督で、背番号は「55」。選手からは監督ならぬ「欽督(きんとく)」と呼ばれた。

芸能人監督の話題性もあって、地方での試合には大勢の観客が詰めかけ、野球を通じた地域おこしとしても注目された。チームには女子選手の片岡安祐美も創設年から所属している。

2006年7月、北海道・函館への遠征中に所属選手だった極楽とんぼの山本圭壱が不祥事を起こし、萩本は責任をとってチームの解散を表明した。しかし全国のファンや関係者から存続を求める声が相次ぎ、わずか3日後に解散を撤回。山本は除名となった。

その後チームは全日本クラブ野球選手権で2007年・2008年に連覇を果たすなど結果も残した。萩本は2010年に監督を勇退し、2011年からは片岡安祐美が選手兼任監督として2代目を継いだ。2024年には女子チームも発足している。

24時間テレビとの縁[編集]

萩本と日本テレビの『24時間テレビ 愛は地球を救う』の関係は、番組の歴史そのものと重なる。1978年の第1回で総合司会を務めたのが萩本で、番組の立ち上げ功労者の一人である。

2007年には66歳でチャリティーマラソンに挑戦。70kmのコースを走り切ったものの、番組のエンディングには間に合わず、後続番組の中でゴールする形になった。

2024年の第47回では、自身と妻の物語がスペシャルドラマとして放送された。2025年8月31日の第48回では、番組内の「全日本仮装大賞 24時間テレビチャリティースペシャル」に生出演している(後述の「炎上とバズ」も参照)。

YouTube「欽ちゃん80歳の挑戦!」[編集]

2021年、80歳を迎えた萩本はYouTubeチャンネル「(萩本欽一)欽ちゃん80歳の挑戦!」で本格的にYouTuberデビューした。仮装大賞の降板やラジオ番組の終了と入れ替わるように始めたもので、『婦人公論』の取材では、体が思うように動かなくなったからこそ新しいことに挑戦したかったという趣旨を語っている。

チャンネルにはテレビプロデューサーの土屋敏男、放送作家の鶴間政行らが関わり、視聴者からの投稿を取り入れた生配信を月曜・木曜に行うなど、往年の欽ドンを思わせる「はがき(投稿)文化」をネットに持ち込んだ。2022年1月からは平日帯の配信企画「帯欽」も始まった。キャイ〜ンのウド鈴木との生配信や、小堺一機・関根勤とのコラボも行われている。

近年は「欽ちゃん最後の夢物語」として、理想の寺づくりをテーマにした企画も進めており、記念碑や桜の植樹の参加者を募るなど、テレビとは違う形の「参加型」コンテンツに取り組んでいる。

2024〜2026年の近況[編集]

2024年[編集]

2月12日、3年ぶりとなる第99回『全日本仮装大賞』が放送され、萩本も香取と並んで司会に立った。8月31日には『24時間テレビ47』内で夫妻を描いたドラマ『欽ちゃんのスミちゃん』が放送された。11月には萩本の歩みを論じた評伝『萩本欽一 昭和をつくった男』(太田省一、ちくま新書)が刊行されている。

2025年[編集]

1月5日、日本テレビで『83歳の欽ちゃん!最後の新番組 あの場所に1000人で集まろうか?』を放送。都内のライブハウスで毎月実験的なコントを重ね、最終的に1000人の観客の前で舞台に立つまでを追った番組だった。1月13日には記念の第100回仮装大賞が放送された。

5月26日には、大阪・関西万博の会場で『仮装大賞』初のグランドチャンピオン大会が行われた。過去の優勝・上位作品27組が出場し、2018年の第95回の優勝作品「参勤交代」が頂点に立った。ただ、この回の萩本は声がかれ、進行の多くを香取に任せていたことから、ネットでは体調を気遣う声も出た。

8月にはフジテレビ『ボクらの時代』、9月にはテレビ朝日『有働Times』、NHKラジオ『欽のラジオ』などに出演。10月7日からはBS日テレで、スポンサーなし・出演料なしという異例の新番組『9階のハギモトさん!』が始まった。早朝5時台の4分番組で、萩本は「欽ちゃんを有名にしてくれた視聴者のみなさまに『ほめられる』テレビになるといいな」とコメントしている。12月にはニッポン放送の『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』にも出演した。

2026年[編集]

1月12日、第101回『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』が放送され、85歳を目前にして司会を続けた。『9階のハギモトさん!』はSEASON 2(1〜3月)、SEASON 3(4〜6月、毎月第2土曜夜)と枠を移しながら続いている。

8月16日には、東京・新宿のライブ会場で安めぐみらと軽演劇『たおやかな心』に出演。『9階のハギモトさん!SEASON4 人生に虹をかけよう!』の収録を兼ねたライブイベントで、約半年ぶりの「欽ちゃんライブ」だった。観覧した間寛平がXで萩本との写真を公開すると、「欽ちゃん元気そうで何よりです」といった声が寄せられる一方、頬が細くなった姿を心配する声も上がった。寛平は「元気でしたよ」と返信している。寛平の持ちギャグ「脳みそバーン」は、萩本に追い込まれて生まれたものだという。

炎上とバズ[編集]

2025年『24時間テレビ』での「話が長い」[編集]

2025年8月31日、『24時間テレビ48』内の仮装大賞特別版に生出演した萩本は、時間の制約を理由に出演者や審査員のコメントを次々と切り上げさせた。ゲストの卓球選手の話を「話が長い!」と遮り、審査員席の上田晋也にも厳しめのツッコミを入れたことから、X上では「威圧的」「偉そう」といった批判や「老害」という言葉まで飛び交った。

一方で、これは欽ドン以来の「素人を追い込んで笑いを引き出す」欽ちゃん流のいじりだとする見方もあった。翌月以降、萩本がノースポンサー・ノーギャラの新番組『9階のハギモトさん!』を始めたことは、この騒動への「芸人としての回答」と受け止める論評も出ている。

野球拳と松山[編集]

1969年の『裏番組をぶっとばせ!!』で全国に広まったお座敷遊び「野球拳」は、お茶の間を沸かせた一方で、低俗番組批判の的にもなった。萩本自身も汚れ役として嫌っていたとされ、2005年には野球拳発祥の地とされる松山の祭りで、ゆかりの人々に謝罪している。

余談[編集]

  • 「コント55号」という名前は、当時話題だったプロ野球・王貞治のシーズン55本塁打にあやかったものとされる。萩本がのちに野球チームを作り、背番号55を付けたのもこの縁である。
  • 浅草の演出家から「才能がない」と言われた話は、萩本の講演の定番。本人はむしろ「才能がないと言われたから、運を大事にするようになった」と前向きに振り返っている。
  • 1985年、人気絶頂のさなかにレギュラー番組をほぼすべて降りて「充電」に入ったが、仮装大賞だけは手放さなかった。
  • 73歳での大学入学は、試験勉強そのものが「ボケない」ための挑戦だった。大学では若い同級生と一緒に講義を受け、そのキャンパスライフが本になった。
  • 間寛平の「脳みそバーン」は、萩本の番組で追い込まれて苦し紛れに生まれたギャグだと寛平本人が明かしている。
  • 2025年に始まった『9階のハギモトさん!』は、民放BSの早朝4分番組で、スポンサーもギャラもなし。80代半ばにして「お金のためではないテレビ」を作るという、異色の挑戦になっている。
  • 仮装大賞の点数ランプと合格の音楽は世代を超えて浸透しており、2025年には大阪・関西万博の会場でグランドチャンピオン大会まで開かれた。

外部リンク[編集]

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