| 山本芳翠 やまもと ほうすい | |
|---|---|
| 本名 | 山本芳翠 |
| 誕生日 | 1850年8月12日 |
| 死亡日 | 1906年11月15日 |
| 死亡年齢 | 56歳 |
| 出身地 | 美濃国恵那郡明智村野志(現・岐阜県恵那市) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 工部美術学校/エコール・デ・ボザール |
| 職業 | 洋画家 |
| 肩書 | 明治美術会創立会員 |
| 活動期間 | 明治期 |
| 代表的な実績 | 生巧館主宰/黒田清輝を洋画家へ導く |
| その他 | 号は芳翠 |
概要[編集]
山本芳翠(やまもと ほうすい、1850-1906)は、明治期の日本の洋画家・版画家。フランス仕込みのアカデミックな写実をいち早く持ち帰った明治洋画の先駆者のひとりらしい。
だが何より「法律家志望だった黒田清輝を口説き落として洋画家にした張本人」として美術史に名を残している。もし芳翠がいなかったら、あの《湖畔》も《読書》も生まれていなかったかもしれない……というレベルの大恩人なのである。
生い立ち:北斎漫画から横浜絵へ[編集]
美濃国恵那郡明智村(現・岐阜県恵那市)の農家に生まれた。15歳のとき『北斎漫画』をたまたま手に取って画家を志したというから、入口は浮世絵だったわけである。京都で久保田雪江について南画を学んでいたが、初代五姓田芳柳の家の前に飾られた横浜絵を「生きてるみたいだ」と感心して入門。南画から洋画へ大転向した。五姓田一門には五姓田義松という天才肌の兄弟子もいた。
1876年(明治9年)、開校したての工部美術学校に入り、お雇い外国人アントニオ・フォンタネージの薫陶を受ける。浅井忠・小山正太郎ら、のちの明治洋画の主役たちと机を並べた世代である。
フランス留学:ジェロームに学ぶ[編集]
1878年(明治11年)、パリ万国博覧会の事務局雇いという立場でフランスへ渡る。エコール・デ・ボザールで大家ジャン=レオン・ジェロームに師事し、約10年を彼の地で過ごした。アカデミズムの本場で徹底的に絵を仕込まれた、当時としては破格の経歴の持ち主だったらしい。
生巧館と、黒田清輝への継承[編集]
1887年(明治20年)に帰国すると、木口木版の名手・合田清とともに画塾「生巧館」を主宰した。
そしてここが芳翠の真骨頂。パリで知り合った法律留学生の黒田清輝に「君は画家になるべきだ」と熱心に勧め、本当に黒田を洋画へ転向させてしまう。1894年(明治27年)、黒田がフランスから帰国すると、芳翠は約束どおり生巧館を黒田に譲渡。黒田はこれを「天真道場」と改め、外光派の一大拠点に育てた。日本近代洋画の本流は、芳翠のこの太っ腹な決断から流れ出したと言ってよい。
明治美術会と代表作[編集]
1889年(明治22年)には、松岡寿・浅井忠・小山正太郎・原田直次郎らとともに、日本初の本格的洋画団体「明治美術会」の創立に参加。以後ほぼ毎年出品した。代表作に《裸婦》《浦島》などがあり、神話的・物語的な主題を西洋画法で描く浪漫的な作風で知られる。
余談[編集]
- 生巧館の門下からは藤島武二ら錚々たる画家が育っており、芳翠は「育ての親」としても近代洋画に貢献している。
- 同郷の岐阜では今も顕彰が続き、地元の美術館で大規模な回顧展が開かれている。出身地が同じ明智一帯ということで、明智光秀つながりの観光ネタにもなっているらしい。
関連項目[編集]
- 五姓田芳柳 - 洋画の師
- 五姓田義松 - 五姓田一門の天才
- 黒田清輝 - 芳翠が洋画家へ導いた弟子
- 浅井忠
- 小山正太郎
- 高橋由一
- 藤島武二
- 青木繁
- 吉田博
- 鹿子木孟郎
- MissAV
- 丸の内OLレイナ
- 稲垣莉生