| 浅井忠 Asai Chū | |
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| ファイル:浅井忠.jpg | |
| 本名 | 浅井忠 |
| 誕生日 | 1856年7月22日 |
| 死亡日 | 1907年12月16日 |
| 死亡年齢 | 51歳 |
| 出身地 | 江戸(佐倉藩中屋敷) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 工部美術学校 |
| 職業 | 洋画家 |
| 肩書 | 明治美術会創立者/東京美術学校・京都高等工芸学校教授 |
| 活動期間 | 1870年代 - 1907年 |
| 代表的な実績 | 《収穫》《春畝》、明治美術会の結成、脂派の代表 |
| 別名 | 黙語(号) |
概要[編集]
浅井忠(あさい ちゅう、1856年7月22日 - 1907年12月16日)は、日本近代洋画の草創期を支えた洋画家・教育者。黄褐色を主調とした重厚な写実で「脂派(やには)」の代表とされ、明治美術会を創立して初期洋画界の中心となった。
高橋由一に続く世代として、のちに登場する黒田清輝の「外光派(紫派)」と画風を競い合った洋画界の二大巨頭の一人。教育者としても優れ、京都で多くの後進を育てた名伯楽でもあるらしい。
生い立ちと工部美術学校[編集]
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士の子として生まれた。若くして花鳥画を学んだのち、横浜で英国人画家から洋画の手ほどきを受け、1876年に開校した工部美術学校に入学。イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事して本格的な西洋画を学んだ。フォンタネージ門下は高橋由一に続く近代洋画の重要な源流であり、浅井はその筆頭格となった。
明治美術会の結成[編集]
1889年(明治22年)、浅井は工部美術学校系の洋画家たちを糾合し、日本最初の本格的な洋風美術団体「明治美術会」を結成した。当時の洋画家ほぼ全員にあたる約80名が参加する一大勢力で、浅井はその中心人物として黎明期の洋画界を牽引した。
《収穫》と脂派[編集]
代表作《収穫》(1890年、明治美術会第二回展)は、刈り入れ時の農村風景を光と空間の表現で捉えた中期の傑作。重厚で写実的な作風は、黄褐色を基調とすることから「脂派」「ヤニ派」と(やや揶揄をこめて)呼ばれた。やがて黒田清輝が明るい外光表現の「紫派」を引っ提げて帰国すると、両者の画風対立がジャーナリズムを賑わせることになる。代表作には《春畝》《グレーの秋》などもある。
フランス留学と京都時代[編集]
1900年、44歳でフランスに留学し、パリ郊外グレー=シュル=ロワンなどで風景を描いた。帰国後は京都高等工芸学校・京都市立絵画専門学校の教授となり、関西洋画界の礎を築いた。図案・工芸の振興にも力を注ぎ、門下からは安井曾太郎・梅原龍三郎ら近代洋画を代表する画家が育った。教育者としての功績は画業に劣らず大きい。
評価[編集]
高橋由一→浅井忠→黒田清輝・藤島武二という近代洋画の系譜のなかで、浅井は工部美術学校系の正統を継ぐ存在として位置づけられる。同時代の日本画の革新者岡倉天心や橋本雅邦が日本画の近代化を進めたのと並行して、洋画の地盤を固めた功労者といえる。
余談[編集]
- 留学中の浅井のもとを慕って訪ねた若き黒田清輝系の画家もおり、派閥対立とは別に人柄は温厚で慕われたという。
- 弟子の梅原龍三郎は、浅井から「君は油絵をやめてはいかん」と励まされた逸話を晩年まで語っていたらしい。