| 吉田 博 | |
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| ファイル:吉田博.jpg | |
| 誕生日 | 1876年9月19日 |
| 死亡日 | 1950年4月5日 |
| 死亡年齢 | 73歳 |
| 出身地 | 福岡県久留米市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 不同舎 |
| 職業 | 洋画家・版画家 |
| 代表的な実績 | 瀬戸内海集(帆船)、富士拾景、日本アルプス十二題 |
| 関連活動 | 太平洋画会 |
概要[編集]
水彩・油彩の洋画家として出発し、後半生は自摺りの木版画で世界的評価を得た「光の魔術師」。小山正太郎の不同舎に学び、満谷国四郎らと太平洋画会を創立。同じ風景を時刻や光ごとに摺り分ける連作で、富士や帆船、山岳を描いた。後年、ダイアナ妃が執務室に愛蔵したことでも再評価された人らしい。
生い立ちと画業[編集]
1876年(明治9年)、福岡県久留米に生まれる。県立修猷館で図画教師の吉田嘉三郎に画才を見いだされ、その養子となった。田村宗立に学んだのち上京し、小山正太郎が開いた画塾・不同舎の門に入って水彩・油彩を描いた。緻密な写生に裏打ちされた風景画で頭角を現す。
太平洋画会と渡米[編集]
1902年(明治35年)、満谷国四郎・石川寅治・中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)を旗揚げ。たびたび渡米・渡欧して水彩・油彩を発表し、海外でも高い人気を得た。雄大な日本アルプスを描いた連作などで、自然を「光」とともに掴む眼を磨いていった。
木版画への転身[編集]
1920年(大正9年)、新版画の版元・渡辺庄三郎と出会って木版画に乗り出す。1923年の関東大震災で版木を焼失すると、以後は自ら版元となって彫師・摺師を抱え、「自摺り」で版画を制作した。『瀬戸内海集』の帆船を朝・昼・夕で摺り分けた連作や、『富士拾景』『日本アルプス十二題』などで、版画の表現を絵画の高みに引き上げた。1947年に太平洋画会会長に就任。1950年(昭和25年)に没。
余談[編集]
- 妻ふじを、長男遠志、次男穂高ら一族そろって画家・版画家で、「吉田家」と呼ばれる芸術一家を成した。
- ダイアナ元妃が吉田博の版画を愛蔵していたことが知られ、近年の再評価のきっかけの一つになった。