| 鹿子木孟郎 Kanokogi Takeshirō | |
|---|---|
| 誕生日 | 1874年11月9日 |
| 死亡日 | 1941年4月3日 |
| 死亡年齢 | 66歳 |
| 出身地 | 岡山県岡山市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 松原三五郎・小山正太郎に師事/パリでローランスに師事 |
| 職業 | 洋画家 |
| 肩書 | 関西美術院長/文展・帝展審査員 |
| 活動期間 | 明治〜昭和 |
| 代表的な実績 | アカデミックな写実油彩・肖像画/関西洋画壇の重鎮 |
| 受賞 | レジオン・ドヌール勲章(1932) |
| 関連活動 | 関西美術院 |
| 別名 | 号:不倒 |
概要[編集]
鹿子木孟郎(かのこぎ たけしろう、1874年11月9日 - 1941年4月3日)は、明治から昭和にかけて活躍した洋画家。号は「不倒」。フランス・アカデミズムに学んだ堅牢な写実描写と肖像画を得意とし、関西美術院長として関西洋画壇を率いた重鎮である。
流行や前衛に流されず、生涯ひたすら写実の油画道を歩んだことから「不倒」の号にふさわしい画家と評されるらしい。2025〜2026年に泉屋博古館で「生誕151年からの鹿子木孟郎」展が開かれるなど、近年あらためて評価が高まっている。
不同舎からパリへ[編集]
1874年(明治7年)、旧岡山藩士・宇治長守の三男として岡山市に生まれた。郷里で松原三五郎の天彩学舎に学んだのち、1892年(明治25年)に上京し、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入った。不同舎は青木繁・坂本繁二郎・満谷国四郎・吉田博ら近代洋画の俊英を輩出した名門で、鹿子木もここで写実の基礎を固めた。
1900年(明治33年)、満谷国四郎・河合新蔵・丸山晩霞らとアメリカに渡り、各地で水彩画展を開いて渡欧資金を得る。翌年フランスへ渡り、歴史画の大家ジャン=ポール・ローランスに師事した。1916年から1918年にかけての3度目の渡仏でも再びローランス、さらにエミール=ルネ・メナールに学んでいる。
関西美術院長として[編集]
1908年(明治41年)、関西美術院の院長に就任。文展・帝展の審査員を務めるなど官展を舞台に活躍し、関西洋画壇の中心的存在となった。ヨーロッパのアカデミック美術を日本に紹介し続けた功績により、1932年(昭和7年)にフランスからレジオン・ドヌール勲章を受けている。
門下からは津田青楓・安井曾太郎をはじめ、黒田重太郎・中村研一・小林和作ら多くの洋画家が育った。同じ関西美術院で水彩画を指導した河合新蔵とともに、関西洋画の屋台骨を支えた。
余談[編集]
- 肖像画の名手として知られ、堅実で重厚な描写は当時の財界人や名士の肖像に好まれた。
- 1941年(昭和16年)4月3日、京都・左京区の自宅で静養中に脳溢血を起こし、尿毒症を併発して死去した。
- 東京で写実を究めた小山正太郎の不同舎が、青木繁・坂本繁二郎ら浪漫派から鹿子木のようなアカデミズムまで、振り幅の広い人材を生んだのは興味深い。