五姓田義松

五姓田義松
ごせだ よしまつ
本名 五姓田義松
誕生日 1855年
出身地 江戸
国籍 日本
家族 父・初代五姓田芳柳
学歴 工部美術学校(中退)
職業 洋画家
肩書 明治美術会創立会員
活動期間 明治期
代表的な実績 日本人初のサロン・ド・パリ入選/第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞
その他 明治天皇の御付画家


概要[編集]

五姓田義松(ごせだ よしまつ、1855-1915)は、明治初期の日本の洋画家。初代五姓田芳柳の次男で、神童・天才と謳われた早熟の画家である。

日本人として初めてサロン・ド・パリに入選し、明治天皇の御付画家まで務めた華々しい経歴の持ち主。なのに後年は不遇のうちに忘れられていき、近年ようやく「時代に埋もれた天才」として再評価が進んでいる……という、ちょっと切ない人でもあるらしい。

神童、洋画と出会う[編集]

1855年(安政2年)、洋画家・初代五姓田芳柳の次男として江戸に生まれた。父も横浜絵の名手だったが、義松は1865年、わずか10歳前後で横浜のイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに師事。早くから西洋画の写実を体得した。

1874年には川上冬崖の推薦で陸軍士官学校の図画教師を務め、1876年に工部美術学校へ入りフォンタネージに学ぶ。山本芳翠(山本芳翠)らと同門だったが、フォンタネージ帰国後の混乱で翌1877年に退学してしまう。

鳳紋賞と御付画家[編集]

退学した1877年、第1回内国勧業博覧会の洋画部門に《阿部川富士図》と《自画像》を出品し、洋画家として最高賞である鳳紋賞を受賞。文句なしの実力を示した。

翌1878年からは明治天皇の御付画家として北陸・東海地方の行幸に同行し、行幸先の風景や記録画を描いた。20代前半でこの待遇というのだから、当時の評価の高さがうかがえる。

サロン・ド・パリ入選[編集]

1880年(明治13年)に渡仏し、レオン・ボナに師事。本場の写実を磨き上げ、ついに日本人初のサロン・ド・パリ入選という快挙を成し遂げる。《操芝居》などパリ時代の作品が知られる。

1889年(明治22年)にアメリカ経由で帰国すると、浅井忠山本芳翠小山正太郎らが結集した明治美術会の創立に携わった。

余談[編集]

  • 父が初代、姉婿が二代目を継いだ五姓田芳柳の名跡に対し、義松は「五姓田義松」のまま天才肌の道を歩んだ。
  • 近年、静岡県立美術館や府中市美術館などで作品が紹介され、「明治洋画の知られざる達人」として静かなブームになっているらしい。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]