| 渡辺護 Mamoru Watanabe | |
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| ファイル:渡辺護 (映画監督).jpg | |
| 誕生日 | 1931年3月19日 |
| 死亡日 | 2013年12月24日 |
| 死亡年齢 | 82歳 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 早稲田大学文学部演劇科 |
| 職業 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー |
| 活動期間 | 1965年 - |
| 代表的な実績 | ピンク映画黎明期を支えた監督作210本超 |
| 別名 | 門前忍 |
概要[編集]
渡辺護(わたなべ まもる、1931年3月19日 - 2013年12月24日)は、日本の映画監督・脚本家・プロデューサー。新劇の俳優・演出家から転身し、ピンク映画の黎明期からその隆盛を支え続けた職人監督。生涯の監督作はなんと210本を超えるとも言われる、文字どおりの量産王だったらしい。
美保純や可愛かずみのデビュー作を手がけたことでも知られ、無名時代の山本晋也を業界に引き入れた"紹介者"でもある。本項では映画監督としての渡辺護(成人映画の巨匠)を扱う。
新劇から成人映画へ[編集]
1950年、早稲田大学文学部演劇科に進学し、新協劇団の演出家・八田元夫の演出研究所に所属。小松方正、内田良平、杉浦直樹ら後の名優たちと知り合いながら、新劇の舞台やテレビドラマで俳優・演出家として活動していた。
1964年、俳優の十朱三郎に誘われて成人映画の助監督に転じ、1965年6月、『あばずれ』で監督デビュー。新劇仕込みの演出力をピンク映画の現場に持ち込んだ、異色の出発だった。
山本晋也を業界へ[編集]
1967年の『情夫と情婦』をきっかけに、旧・新東宝の小森白が率いる東京興映に入社。このとき渡辺は山本晋也を同社に紹介しており、のちに「カントク」としてお茶の間の人気者になる山本晋也の映画キャリアは、ここから本格的に始まったとも言える。二人は「門前忍(もんぜん しのぶ)」という筆名を共有していたことでも知られる。
1969年からは向井寛の日本芸術映画協会の製作作品を発表し、大和屋竺脚本の作品なども手がけながら、独立独歩のピンク映画を撮り続けた。
量産の巨匠[編集]
渡辺は生涯にわたって驚異的な多作ぶりを発揮し、監督作だけでも210本を超えるといわれる。1972年以降は荒井晴彦や高橋伴明といった、後に頭角を現す若手の脚本家・監督の脚本を積極的に採用した。新世代の才能に門戸を開いた点でも、ピンク映画界の重要な結節点だった。
俳優としての出自を持つだけに役者の芝居を引き出すのが巧みで、低予算・短期間の現場でありながら、丁寧な人間描写で評価される作品を数多く残した。
余談[編集]
- デビュー作を手がけた女優として、美保純・可愛かずみの名がよく挙げられる。後に一般の俳優として活躍する人材を、ピンク映画の現場から世に送り出した。
- 同じくピンク映画から出発した滝田洋二郎も、向井プロ時代に山本晋也らとともに助監督として現場を踏んでおり、渡辺護を取り巻く人脈は日本映画の意外な水脈となっている。
- 若松孝二と並び、独立系ピンク映画の"職人"として後進に与えた影響は大きい。