| 柴田是真 しばた ぜしん | |
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| ファイル:柴田是真.jpg | |
| 本名 | 柴田順蔵 |
| 誕生日 | 1807年3月15日 |
| 死亡日 | 1891年7月13日 |
| 死亡年齢 | 84歳 |
| 出身地 | 江戸両国橘町 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 蒔絵師・漆芸家・絵師 |
| 活動期間 | 幕末〜明治 |
| 代表的な実績 | 青海波塗の復活、富士田子浦蒔絵額面 |
| 別名 | 号:是真/令哉/対柳居/沈柳亭 |
| あだ名 | 最後の江戸職人 |
概要[編集]
柴田是真(しばた ぜしん、1807年-1891年)は、江戸時代末から明治中期にかけて活躍した蒔絵師・漆芸家にして四条派の絵師。漆工と絵画の二刀流をきわめ、「最後の江戸職人」とも称された近代日本工芸界の大スターらしい。ウィーン万博での受賞以来「ZESHIN」のローマ字名で欧米のコレクターに知られ、いまも海外人気が根強い。
生い立ち[編集]
文化4年(1807年)、江戸両国橘町に蒔絵師・柴田市五郎の子として生まれた。幼名は亀太郎、名は順蔵。11歳で蒔絵師に弟子入りして職人としての修行を始め、16歳のときに円山四条派の絵師・鈴木南嶺に入門して絵を学んだ。蒔絵師が絵を本格的に学ぶのは珍しく、「下絵から自分で描ける蒔絵師」を志したのだという。
京都遊学と四条派[編集]
24歳のころ京都へ遊学し、四条派の岡本豊彦に師事して写生を 基礎 とする画法を本格的に修めた。岡本豊彦は呉春の高弟で円山応挙の系譜を引く山水の名手であり、是真はここで京都画壇の写生の精神を吸収した。江戸へ戻ってからは、絵師としての確かな描写力を蒔絵・漆絵に注ぎ込み、独自の世界を切り開いていく。
漆芸の革新[編集]
是真は、青海勘七以来とだえていた青海波塗を復活させたほか、青銅塗・四分一塗・鉄錆塗・砂張塗・紫檀塗・墨形塗など、金属や陶磁の質感を漆で写し取る数々の新技法を創始した。なかでも漆を絵具のように扱って紙に描く「漆絵」は是真の独擅場で、菓子皿や画帖に至るまで遊び心あふれる作品を残している。職人の技と絵師の発想が一体となった点が、是真の真骨頂らしい。
万博と国際的評価[編集]
明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞。以後「ZESHIN」の名は欧米に広まり、その作品は海外の美術館やコレクションに数多く収まった。明治23年には帝室技芸員に任じられている。
余談[編集]
- 号の「対柳居」「沈柳亭」など、柳にちなんだ雅号を好んで用いた。
- 同じ岡本豊彦門・四条派の系譜にあたる絵師として塩川文麟がおり、是真は江戸で、文麟は京都で、それぞれ幕末の写生画を担った。
- 没後は浅草今戸の称福寺に葬られた。
関連項目[編集]
- 岡本豊彦 - 京都遊学時の師。四条派
- 呉春 - 四条派の祖
- 円山応挙 - 写生画の祖
- 松村景文 - 四条派の花鳥画
- 塩川文麟 - 同じ幕末四条派の絵師
- 中島来章 - 幕末円山派の絵師
- 森狙仙 - 円山派の動物画
- 川端玉章 - 近代日本画へ四条派を継いだ画家
- MissAV
- 丸の内OLレイナ
- 稲垣莉生
- 陽向葵ゅか