川端玉章

川端 玉章
かわばた ぎょくしょう
本名 川端 滝之助
誕生日 1842年4月18日
死亡日 1913年2月14日
死亡年齢 70歳
出身地 山城国京都
国籍 日本
職業 日本画家
肩書 帝室技芸員/東京美術学校教授
活動期間 明治時代
代表的な実績 円山四条派の近代化、川端画学校創設


概要[編集]

川端玉章(かわばた ぎょくしょう、1842年4月18日〈天保13年〉- 1913年〈大正2年〉2月14日)とは、明治時代を代表する日本画家のひとり。本名は滝之助。京都の蒔絵師の家に生まれ、円山応挙の流れをくむ円山・四条派の写生を近代に橋渡しした巨匠で、東京美術学校の創設教授・帝室技芸員として画壇の重鎮となった。晩年に開いた川端画学校からは数多の画家が育ち、平福百穂結城素明といった写生派の俊英を世に送り出したことでも知られるらしい。

生い立ちと修業[編集]

京都の蒔絵師・川端家に生まれた玉章は、幼くして父を失いながらも絵筆を握り、円山派の中島来章に入門して写生の基礎を徹底的に叩き込まれた。師の来章は円山応挙門流の正統を継ぐ画家で、玉章は写生と装飾性を両立させる円山・四条派のエッセンスをここで吸収している。号の「玉章」は来章から一字を与えられたものらしい。

上京と洋画体験[編集]

慶応2年(1866年)、玉章は江戸に出て狩野派を学び、さらに高橋由一やイギリス人画家ワーグマンについて油絵の手ほどきも受けている。西洋画の陰影法・遠近法に触れたことは、のちの玉章の写生観を一段と立体的なものにした。もっとも玉章はやがて円山・四条派の伝統へと立ち返り、和洋の写実を融合させた穏健で品格のある画風を確立していった。

東京美術学校と川端画学校[編集]

明治20年(1887年)に東京美術学校が設立されると同時に教鞭をとり、明治23年(1890年)には教授に就任。明治29年(1896年)には黒田清輝らとともに帝室技芸員に任命され、官展でも審査の中枢を担った。明治42年(1909年)には私塾川端画学校を創設して後進の育成に全力を注ぎ、日本画・洋画の両科を備えたこの学校は近代美術教育の一大拠点となったという。

門下と画風[編集]

玉章の門下からは平福百穂結城素明といった、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生を掲げる画家が輩出した。両者はのちに无声会・金鈴社の中核を担い、近代日本画の写生派の系譜を形づくっている。玉章自身の画は、墨堤の桜を描いた「墨堤春暁図」や「雨後山水図」など、円山・四条派ゆずりの瀟洒で叙情的な山水・花鳥が高く評価されている。

余談[編集]

  • 川端画学校はのちに梅原龍三郎安井曾太郎ら洋画家も学んだとされ、近代美術教育に大きな足跡を残した。
  • 横山大観ら日本美術院系が線描を排した「朦朧体」へ突き進んだのに対し、玉章は伝統的な線と写生を守った穏健派の代表格で、近代日本画の二つの潮流を映す存在ともいえる。

関連項目[編集]

  • 横山大観 - 同時代に日本美術院で活躍した日本画の巨匠
  • 平福百穂 - 川端画学校で学んだ写生派の俊英
  • 結城素明 - 玉章門下で金鈴社を興した日本画家
  • 竹内栖鳳 - 京都で円山・四条派を近代化した同時代の巨匠
  • 高橋由一 - 玉章に油絵を教えた日本近代洋画の先駆者
  • 菱田春草下村観山 - 日本美術院で朦朧体に挑んだ画家

外部リンク[編集]

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