澁澤龍彦

澁澤龍彦
Tatsuhiko Shibusawa
本名 澁澤龍雄
誕生日 1928年5月8日
死亡日 1987年8月5日
死亡年齢 59歳
出身地 東京市芝区(現・東京都港区)
国籍 日本
居住地 神奈川県鎌倉市
学歴 東京大学文学部仏文科卒
職業 小説家、翻訳家、フランス文学者、評論家
活動期間 1950年代 - 1987年
代表的な実績 マルキ・ド・サドの翻訳・紹介/『高丘親王航海記』
受賞 泉鏡花文学賞、読売文学賞
別名 澁川龍兒、蘭京太郎


概要[編集]

澁澤龍彦(しぶさわ たつひこ、1928年5月8日 - 1987年8月5日)は、日本の小説家・翻訳家・フランス文学者・評論家。マルキ・ド・サドを日本に本格紹介した人物として知られ、エロティシズム・幻想文学・オカルティズム・博物学を横断する独自の文人世界を築いた。本名は龍雄。

サド翻訳をめぐる「悪徳の栄え事件」で9年に及ぶ猥褻裁判の被告となりながら、それを「お祭り騒ぎ」と嘯いた人を食った構えでも語り草になっている。澁澤の趣味と教養がにじむ晦渋にして優美な文章は、戦後サブカルチャーの底流にも深く影響を与えた。

生い立ち[編集]

東京・芝の生まれ。実業家・渋沢栄一は澁澤の高祖父の甥にあたり、幼少時には存命の栄一翁に抱かれたという逸話も残る。旧制浦和高校時代、神田の古書店街でダダイスムやシュルレアリスムの原書を渉猟し、アンドレ・ブルトンやコクトーに熱中した。

東京大学文学部仏文科に進み、卒業論文は『サドの現代性』。サドが俗悪なポルノ作家としか見られていなかった当時、その論考はアカデミズムから疎まれたが、これが生涯のテーマとなった。

サド裁判[編集]

澁澤が翻訳したサドの『悪徳の栄え(続)』が猥褻文書にあたるとして、1959年、版元の現代思潮社社長とともに在宅起訴される。以後9年にわたる、いわゆる「悪徳の栄え事件」である。

特別弁護人に埴谷雄高・遠藤周作、証人に大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・三島由紀夫らが立つという、戦後を代表する表現の自由をめぐる裁判となった。当の澁澤は「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとしてなるべくおもしろくやる」という方針で、「寝坊した」と称して公判に遅刻したことすらあったという。最終的に罰金刑が確定した。

文人としての世界[編集]

責任編集を務めた雑誌『血と薔薇』(エロティシズムと残酷の綜合研究誌)は、横尾忠則のアートディレクションのもと、当時の前衛美術と文学を結集した伝説的な雑誌として知られる。沼正三のSM小説『家畜人ヤプー』を絶賛したのも澁澤だった。

評論・エッセイでは『夢の宇宙誌』『黒魔術の手帖』などで博物学的な幻想世界を展開。小説家としても独自の境地を開き、1981年に『唐草物語』で泉鏡花文学賞を受賞した。

三島由紀夫との交友[編集]

作家・三島由紀夫とは深い親交で結ばれ、初の海外旅行に出る澁澤を三島が羽田空港まで見送ったのが、二人の最後の面会になったと伝えられる。鎌倉の澁澤邸「呑珠庵」には、種村季弘や横尾忠則ら多彩な文化人が集った。

晩年と死[編集]

晩年は号を「呑珠庵」とした。入院生活のさなかも長篇『高丘親王航海記』を書き継いで脱稿し、次作を構想していたが、1987年8月5日、頚動脈瘤の破裂により59歳で死去。『高丘親王航海記』は没後に第39回読売文学賞を受賞した。没後の追悼号では篠山紀信が撮影を手がけている。

余談[編集]

「澁澤龍彦」の表記は本来「澁澤龍彥」と旧字の「彥」を用いる。猫と兎を愛し、博物趣味の標本や奇書に囲まれた鎌倉の暮らしぶりも、ファンの間ではよく知られているらしい。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]