概要[編集]
車いすテニス(Wheelchair Tennis)とは、車いすに乗った選手がプレーするテニスである。一般のテニスとほぼ同じコート・ラケット・ボールを使い、「2バウンドまでの返球が認められる」ことが最大の違い。パラリンピックの正式競技であり、四大大会にも車いす部門が設けられている。日本は世界屈指の強豪国として知られる。
詳細[編集]
車いすテニスは1976年、アメリカのブラッド・パークスが始めたのが起源とされる。アクロバットスキーの事故で下半身不随となったパークスが、車いすの改良も含めて本格的な競技スポーツとして形にした。その後1980年代にかけて大会や選手協会が整い、1988年には国際テニス連盟(ITF)が正式に認めた。
現在はITFが統括し、世界で年間160以上の大会が「ITF車いすテニスツアー」として開催されている。大会はグランドスラム、スーパーシリーズ、ITF1〜3、フューチャーズといったグレードに分かれ、年末にはシングルスの年間王者を決める「NECマスターズ」が行われる。
日本では日本車いすテニス協会が国内を統括。国枝慎吾、上地結衣、小田凱人と、各時代に世界の頂点に立つ選手を輩出してきた「車いすテニス大国」であり、2026年10月には地元開催の2026年アジアパラ競技大会(愛知・名古屋)でも実施される。
ルール[編集]
2バウンドルール[編集]
基本ルールは一般のテニスと同じで、コートの広さ、ネットの高さ、ラケット、ボールもそのまま。唯一にして最大の違いが「2バウンドまでに返球すればOK」という点だ。しかも2バウンド目はコートの外で弾んでもかまわない。
これにより、車いすの移動距離を補いつつも、トップ選手になるほど1バウンドで打ち返す場面が多くなる。車いす使用者と健常者が対戦・ペアを組む場合は、車いす使用者だけに2バウンドルールが適用される。
競技用車いす[編集]
競技用の車いすは軽量で、左右の車輪が上に向かって内側に傾いた「ハの字」型が特徴。安定性と小回りを両立させるための設計で、選手はラケットを握ったまま車輪を漕ぎ、ターンと加速を繰り返す。いわゆる「チェアワーク」の巧拙が勝敗を大きく左右する。
ランキング[編集]
世界ランキングは過去1年間の成績から算出され、男子は上位9大会、女子は8大会、クアードは7大会の成績が対象。毎週火曜日に更新される。
クラス分け[編集]
車いすテニスには主に以下のクラスがあり、それぞれにシングルスとダブルスがある。
- 男子:下肢に障害のある男子選手のクラス。
- 女子:下肢に障害のある女子選手のクラス。
- クアード:上肢にも障害がある、四肢麻痺などの重い障害の選手が対象。男女の区別はない。ラケットと手をテーピングで固定することや、電動車いすの使用が認められている。
- ジュニア:18歳未満の選手が対象。
また、障害者と健常者がペアを組むダブルスは「ニューミックス」と呼ばれる。
歴史[編集]
誕生と国際化[編集]
- 1976年:ブラッド・パークスが競技としての車いすテニスをスタート。
- 1977年:パークスがエキシビションマッチを開催。
- 1980年:アメリカで車いす財団が設立され、全米オープン(車いすの大会)が初開催。
- 1981年:車いすテニス選手協会が設立。
- 1985年:国別対抗戦ワールドチームカップが創設。
- 1988年:ITFが正式に認可し、国際車いすテニス連盟が設立。同年のソウル大会でパラリンピックの公開競技に。
- 1992年:バルセロナパラリンピックから正式競技に。
- 1998年:国際車いすテニス連盟がITFに統合され、ITFの正式な一部門となる。
- 2004年:アテネパラリンピックでクアードが初実施。
日本での普及[編集]
日本では1983年、松尾清美がハワイで車いすテニスを体験し、佐藤政廣が教本の翻訳や講習会で普及に尽力した。1985年に福岡県飯塚市で国際大会が開かれたのが本格的な普及の始まりとされ、これが現在の飯塚国際車いすテニス大会(ジャパンオープン)へとつながっている。
パラリンピック・四大大会[編集]
パラリンピック[編集]
1992年バルセロナ大会から正式競技。日本勢は2004年アテネ大会で国枝慎吾と齋田悟司が男子ダブルスの金メダルを獲得したのを皮切りに、国枝が2008年北京・2012年ロンドン・2021年東京(2020年東京パラリンピック)と男子シングルス3連覇を達成した。
2024年パリパラリンピックでは、初出場の小田凱人が18歳で男子シングルス金メダルを獲得し、男子史上最年少の金メダリストとなった。女子では上地結衣がシングルス金、さらに田中愛美と組んだダブルスでも、ディーデ・デフロート/アニーク・ファンクート組(オランダ)をマッチタイブレークの末に破って金メダル。この種目でのオランダの連覇を止め、オランダ勢以外で初の女子ダブルス金メダリストとなった。
四大大会[編集]
2000年代に全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンに車いす部門が相次いで設けられ、2009年にはツアーに「グランドスラム」のグレードが新設された。ウィンブルドンは長らくダブルスのみの実施だったが、2016年からシングルスも行われている。
四大大会すべてとパラリンピックを制する「生涯ゴールデンスラム」は、車いすテニスでも最高の栄誉とされる。
日本の強さ[編集]
国枝慎吾[編集]
1984年生まれ、千葉県出身。「俺は最強だ!」を座右の銘とし、2006年から長く世界ランキング1位に君臨した絶対王者。四大大会通算50勝(シングルス28・ダブルス22)、パラリンピック金メダル4個を獲得し、2022年のウィンブルドン制覇で生涯ゴールデンスラムを達成した。2023年1月22日に世界1位のまま現役引退を表明し、同年3月にはパラスポーツ選手として初めて国民栄誉賞を受賞した。
上地結衣[編集]
1994年生まれ、兵庫県明石市出身。2014年には20歳でダブルスの年間グランドスラムを達成。パラリンピックでは2016年リオで銅、2021年東京で銀と階段を上り、2024年パリで単複2冠に輝いた。長年の宿敵はオランダのディーデ・デフロートで、二人の対戦は70戦に達している。
小田凱人[編集]
2006年生まれ、愛知県一宮市出身。9歳で骨肉腫を発症し、入院中に医師からパラスポーツを勧められたことが競技を始めるきっかけとなった。国枝慎吾の映像に憧れてラケットを握り、2023年に全仏オープンを史上最年少で制覇、同年に史上最年少で世界ランキング1位に。2024年パリで金メダル、2025年の全米オープン優勝で19歳にして生涯ゴールデンスラムを達成した。
層の厚さ[編集]
3人以外にも、大谷桃子、田中愛美、三木拓也、眞田卓、クアードの菅野浩二など世界の上位で戦う選手が多い。2023年2月時点では世界ランキングトップ10に日本人が6人入っていた。2023年の杭州アジアパラ競技大会では、男子シングルスで小田・眞田・三木が表彰台を独占し、女子シングルスとダブルスは上地が制した。
2026年の最新トピック[編集]
上地結衣、ウィンブルドン初優勝で生涯ゴールデンスラム[編集]
2026年最大のニュースは、上地結衣のウィンブルドン女子シングルス初優勝だ。7月11日の決勝で第2シードのデフロートを6-0、6-0の完封で下し、試合時間はわずか48分。2022年・2025年と決勝で敗れてきた芝の聖地で、10度目の挑戦にして頂点に立った。これで四大大会とパラリンピックをすべて制し、生涯ゴールデンスラムを達成。女子ではデフロートに次ぐ史上2人目で、日本女子として初めて四大大会すべてを制した選手にもなった。
さらに9月の全米オープンでも、決勝で再びデフロートを6-2、1-6、6-3で破り2連覇(全米通算4度目)。四大大会シングルス通算13勝目を挙げ、単複2冠に輝いている。
小田凱人、年間グランドスラムに王手も…[編集]
小田は1月の全豪オープン、6月の全仏オープン(大会4連覇)を制し、7月12日のウィンブルドン決勝では地元イギリスのアルフィー・ヒューエットを6-1、6-1で退けて2連覇。これで前年の全仏から四大大会6連勝、シングルス通算10勝目となり、自身初の年間グランドスラムに王手をかけた。しかし9月の全米オープン決勝で宿敵ヒューエットにストレートで敗れ、準優勝で偉業はお預けとなった。
地元開催のアジアパラ[編集]
第5回アジアパラ競技大会となる愛知・名古屋2026は、10月18日の開会式から24日の閉会式まで開催され、18競技502種目が行われる。日本でのアジアパラ開催は初めて。車いすテニスの会場は名古屋市東山公園テニスセンターだ。
日本代表には小田凱人、上地結衣、大谷桃子、田中愛美、三木拓也らが名を連ね、指揮官は「全種目で金メダルを狙う」と宣言している。一宮市出身の小田にとってはまさに地元開催で、本人はこの大会を「今年一番の目標」と位置づけ、「地元の選手がただ試合をしただけで終わりにしたくない」と語っている。
余談[編集]
- 国枝慎吾の最後のタイトルは2022年10月の楽天ジャパン・オープンで、決勝の相手は小田凱人だった。「憧れの人」を追いかけてきた少年が、のちに後継者と呼ばれることになった。
- 上地とデフロートの2026年ウィンブルドン決勝は70度目の対戦だったとされ、直近9戦では上地が6勝と盛り返していた。
- 上地の2026年ウィンブルドン優勝を受け、ラケットを提供する住友ゴム工業は記念キャンペーンを実施した。