| 森寛斎 もり かんさい | |
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| ファイル:森寛斎.jpg | |
| 本名 | 石田公粳 |
| 誕生日 | 1814年 |
| 死亡日 | 1894年6月2日 |
| 出身地 | 長門国萩 |
| 国籍 | 日本 |
| 居住地 | 京都 |
| 職業 | 絵師(円山派・森派)、日本画家 |
| 肩書 | 帝室技芸員 |
| 活動期間 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
| 代表的な実績 | 「明治の応挙」と称された森派の巨匠 |
| 別名 | 幼名:幸吉・尚太郎、諱:公粳 |
森寛斎(もり かんさい、1814年〈文化11年〉 - 1894年〈明治27年〉6月2日)とは、幕末から明治にかけて京都で活躍した日本画家。森狙仙・森徹山に続く森派を代表する絵師で、写生に南画の墨法を融合した気品ある作風から「明治の応挙」と称された。維新期には長州の勤皇の志士として国事に奔走した異色の経歴を持つ。
生い立ち[編集]
文化11年(1814年)、長門国萩(現在の山口県萩市)に生まれた。本姓は石田、幼名を幸吉、のちに尚太郎、諱を公粳(きんいき)という。はじめ萩で長州藩の絵師に学んだのち大坂に出て、円山派・森派の森徹山の門に入り、その画才を認められて森姓を名乗ることを許された。師系は森狙仙(森派の祖)から森徹山、そして森一鳳・寛斎へと続く。
勤皇の志士として[編集]
幕末の動乱期、寛斎はしばしば絵筆をおいて長州藩の志士たちと交わり、国事に奔走したと伝えられる。画家でありながら維新運動に身を投じた点は、同時代の絵師のなかでも際立って異色である。維新後はその面影を消し、京都に永住して悠々と絵三昧の日々を送った。
画風[編集]
円山応挙以後の円山派は、対象の形を忠実に写し取ることにとらわれてしだいに形骸化していったが、寛斎は南画を手本として滲みや掠れといった墨の多彩な表現を取り入れ、単なる写生にとどまらない雅趣と臨場感のある画面を追求した。この円山派の写生と南画の精神性を融合した画境が高く評価され、「明治の応挙」と呼ばれた。
京都画壇の中心へ[編集]
明治以降は塩川文麟らが結成した画会「如雲社」に参加した。文麟の没後は同社および京都画壇の中心的存在となり、内国勧業博覧会をはじめ各種の博覧会に数多く出品して高い賞を受けている。明治23年(1890年)10月2日には、絵師としての功績により帝室技芸員を拝命した。京都画壇の長老として、のちの竹内栖鳳らへと続く近代日本画の隆盛を橋渡しした。
晩年[編集]
明治27年(1894年)、前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅で没した。享年81。
余談[編集]
- 「明治の応挙」の呼称は、円山応挙の写生画の正統を継ぐ者として寛斎に贈られた最大級の賛辞であった。
- 森派は狙仙の猿画に始まる動物写生を得意としたが、寛斎はそこに文人画的な情趣を加え、森派の画風を一段と豊かにした。
関連項目[編集]
- 森狙仙 - 森派の祖。猿画の名手
- 森徹山 - 師。狙仙の養子で森派2代
- 森一鳳 - 兄弟弟子。森派を継いだ大坂の絵師
- 円山応挙 - 写生画の祖。「明治の応挙」の由来
- 塩川文麟 - 如雲社を結んだ幕末京都画壇の長老
- 中島来章 - 幕末円山派の名手
- 横山清暉 - 幕末四条派、平安四名家
- 竹内栖鳳 - 近代京都画壇の巨匠