岡倉天心

岡倉天心
Okakura Tenshin / Okakura Kakuzō
ファイル:岡倉天心.jpg
本名 岡倉覚三(おかくら かくぞう)
誕生日 1863年2月14日
死亡日 1913年9月2日
死亡年齢 50歳
出身地 横浜(福井藩士の家)
国籍 日本
学歴 東京大学(第1期生)
職業 美術行政家・思想家・美術史家
肩書 東京美術学校長/日本美術院創設者/ボストン美術館東洋部長
活動期間 1880年代 - 1913年
代表的な実績 東京美術学校の創設、日本美術院の創設、『茶の本』『東洋の理想』
別名 天心(号)


概要[編集]

失われかけた日本美術を西洋化の波からすくい上げ、「Asia is one(アジアは一つ)」の一句で東洋美術の独自性を世界に叫んだ、近代日本美術の最大のプロデューサー……それが岡倉天心(本名・覚三〈かくぞう〉)である。お雇い外国人アーネスト・フェノロサの助手として古社寺の宝物調査に同行し、東京美術学校(今の東京藝術大学)を立ち上げ、騒動で追われたあとは横山大観菱田春草下村観山らを率いて日本美術院を旗揚げ。晩年はアメリカに渡り、英文の名著『茶の本』で「TEA(茶)」を入口に日本文化の精神を世界へ売り込んだ。要するに「日本美術の番頭にして名コピーライター」だったらしい。

生い立ちと英語[編集]

文久2年12月26日(西暦1863年2月14日)、横浜の貿易商を営む福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として生まれた。開港間もない横浜で育ったため、少年期から外国人居留地の宣教師について英語を仕込まれ、同時に漢学塾で漢籍を叩き込まれた。「英語ペラペラ+漢籍ガチ勢」という当時としては最強のバイリンガル人材で、後年の国際的活躍はこの二刀流が下地になっている。女流画家・奥原晴湖に南画の手ほどきも受けたという。

フェノロサとの古美術行脚[編集]

東京大学(第1期生)で政治学・理財学を学ぶうち、教師として来日していた哲学者アーネスト・フェノロサと出会う。卒業後は文部省に入り、フェノロサの通訳兼助手として近畿の古社寺を巡り、仏像や古画の調査・記録に没頭した。1884年(明治17年)にはフェノロサが法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像の厨子を開いた現場にも立ち会ったとされる。明治19〜20年には美術取調委員として欧米の美術事情を視察し、「日本美術には日本美術の道がある」という確信を深めて帰国した。

東京美術学校長として[編集]

1889年(明治22年)に開校した東京美術学校の運営を主導し、翌年には校長に就任。当初は日本画・木彫・工芸など伝統美術を中心に据え、西洋画科を置かなかった点に天心の「国粋」志向がよく表れている。校長として横山大観下村観山ら若き俊英を育て、橋本雅邦を主任教授に迎えた。ところが1898年(明治31年)、天心を中傷する怪文書が出回る「東京美術学校騒動」が勃発。天心は校長を辞任し、彼を慕う教官たちもこれに殉じて連袂辞職した。

日本美術院の創設[編集]

学校を去った天心は同年、橋本雅邦・横山大観菱田春草下村観山木村武山らとともに在野の美術団体「日本美術院」を創設する。輪郭線を抑え色彩で空気を描く新技法(後に「朦朧体」と揶揄された)の実験が進められたが、当初は世間の評価が芳しくなく経営は苦しかった。天心は活動拠点を茨城県の五浦(いづら)海岸に移し、大観・春草・観山・武山を呼び寄せて「都落ち」ともいわれる共同制作生活を送った。この五浦時代の苦闘が、のちの院展再興の精神的な礎になった。

ボストンと英文著作[編集]

日本での足場が狭まる一方、天心は海を渡って評価を高めた。アメリカのボストン美術館に招かれ、やがて中国・日本美術部長(東洋部長)に就任。英語で『東洋の理想』(The Ideals of the East, 1903、冒頭が有名な「Asia is one」)、『日本の覚醒』、そして1906年ニューヨーク刊の『茶の本』(The Book of Tea)を相次いで発表した。『茶の本』は茶道を切り口に「不完全なもののなかに完全を見いだす」東洋の美意識を説いた小品で、英語圏でロングセラーとなり、今も日本文化の入門書として読み継がれている。

晩年と死[編集]

晩年はインドの詩人タゴールらとも交流し、東西文明の架け橋として活動した。1913年(大正2年)9月2日、療養先の新潟県赤倉の山荘で腎臓病により死去。満50歳だった。死の翌年、弟子の横山大観下村観山木村武山・安田靫彦・今村紫紅らが「天心の一周忌」を期して日本美術院を再興(再興院展のスタート)し、師の理想を受け継いだ。五浦の地には六角堂(天心が思索した小堂)が再建され、今も太平洋を望んで建っている。

余談[編集]

  • 「天心」は号で、本名は覚三。英語論文や海外では「Kakuzo Okakura」名義を使った。
  • 五浦の海で釣りをするのが好きで、白い和装でボートを漕ぐ姿が名物だったという。
  • 『茶の本』を英語で書いたのは、当時アメリカで日本=戦争(日露戦争)のイメージが強かったため、「武士道」だけでなく「茶の心」も知ってほしかったから、ともいわれる。
  • 弟は英文学者・劇作家の岡倉由三郎で、英語教育者として知られる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]