狩野芳崖

狩野芳崖
Kanō Hōgai
ファイル:狩野芳崖.jpg
本名 狩野延信(かのう のぶのぶ)/幼名・幸太郎
誕生日 1828年2月27日
死亡日 1888年11月5日
死亡年齢 60歳
出身地 長門国(山口県下関市・長府)
国籍 日本
学歴 木挽町狩野家(狩野勝川院雅信に師事)
職業 日本画家
活動期間 1840年代 - 1888年
代表的な実績 《悲母観音》《不動明王》《仁王捉鬼》、近代日本画の先駆
別名 芳崖(号)


概要[編集]

江戸の狩野派の伝統を受け継ぎながら、西洋の写実や陰影を貪欲に取り込み、近代日本画の扉を開いた画家が狩野芳崖である。維新後は職を失い極貧のなかで筆を折りかけたが、アメリカ人アーネスト・フェノロサに才能を見出されて復活。死の直前に描き上げた絶筆《悲母観音》は、伝統と近代が溶け合った日本画の金字塔とされ、芳崖は「近代日本画の父」とも呼ばれる。橋本雅邦とは生涯の親友で、二人は「狩野派の二大巨頭」とうたわれた。

生い立ちと修業[編集]

文政11年(1828年)、長門国・長府藩の御用絵師の家に生まれた。本名は延信、幼名は幸太郎。家業を継ぐべく画を学び、19歳で江戸に出て、狩野派の本家筋・木挽町狩野家の狩野勝川院雅信に入門。ここで生涯の親友となる橋本雅邦と出会い、ともに塾頭をつとめるほどの腕前にまで成長した。狩野派の正統を身につけた、まさにエリート絵師だった。

維新後の苦境[編集]

ところが明治維新で大名のお抱え絵師という仕事そのものが消滅。狩野派の旧来の様式も「時代遅れ」とされ、芳崖は注文も収入も失って極貧生活に陥った。生活のために陶器の下絵を描いたり、内職をしたりして食いつなぐ日々。一時は画家としての将来を半ばあきらめかけていたとも伝わる。長く不遇の時代が続いた。

フェノロサとの出会い[編集]

転機は1882年(明治15年)。第1回内国絵画共進会で審査にあたっていたアーネスト・フェノロサが、出品されていた芳崖の作品に注目し、その実力を高く評価した。以後、フェノロサと岡倉天心は芳崖を支援し、伝統的な狩野派の技法に西洋画の写実・空気遠近・陰影法を融合させる新しい日本画の創造を後押しした。芳崖はこの晩年の数年で、《不動明王》《仁王捉鬼(におうそっき)》《桜下勇駒》など、力強くも革新的な傑作を次々と生み出した。

絶筆《悲母観音》[編集]

芳崖芸術の到達点が、最晩年の大作《悲母観音》(重要文化財・東京藝術大学大学美術館蔵)である。雲上に立つ観音菩薩が、水瓶から滴る命の水で生まれたばかりの嬰児を慈しむ姿を描いたもので、唐代仏画のモチーフに西洋的な写実と陰影を加味した荘厳な画面が圧巻。フェノロサの指導のもとに構想されたこの作品を、芳崖は完成の直前――1888年(明治21年)11月5日に死去する数日前まで筆を入れていたと伝わる。まさに命と引き換えに描いた絶筆だった。

評価[編集]

《悲母観音》完成の直後に世を去ったため、芳崖は新設される東京美術学校(今の東京藝術大学)の教壇に立つことは叶わなかった。しかしその革新は弟子や後進に受け継がれ、親友・橋本雅邦やその門下の横山大観下村観山らへと流れ込んでいく。伝統の最後の正統な継承者でありながら、同時に近代日本画の最初の開拓者でもあった芳崖は、まさに「橋渡しの画家」として美術史に屹立している。

余談[編集]

  • 「芳崖」は号で、本名は延信。
  • 少年期に下村観山が一時師事したとも伝わり、天心門下にも血脈が及んでいる。
  • 親友・橋本雅邦とは、貧しい修業時代に弁当を分け合った仲だったという逸話が残る。
  • 《悲母観音》の嬰児には、生命の誕生と慈愛という普遍的テーマが込められている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]