| 南方熊楠 みなかた くまぐす | |
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| ファイル:南方熊楠.jpg | |
| 本名 | 南方熊楠 |
| 誕生日 | 1867年5月18日 |
| 死亡日 | 1941年12月29日 |
| 死亡年齢 | 74歳 |
| 出身地 | 紀伊国(和歌山県和歌山市) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京大学予備門中退 |
| 職業 | 博物学者・生物学者・民俗学者 |
| 活動期間 | 1880年代 - 1941年 |
| 代表的な実績 | 粘菌(変形菌)研究/神社合祀反対運動/『十二支考』 |
| 関連活動 | 学術誌『ネイチャー』への寄稿/大英博物館 |
概要[編集]
南方熊楠(みなかた くまぐす、1867-1941)は、和歌山が生んだ規格外の天才博物学者・民俗学者。粘菌(変形菌)研究の世界的権威であると同時に、生物学・人類学・民俗学・宗教学を横断する超人的な知の巨人で、「歩く百科事典」「日本人の可能性の極限」などと評される。
語学は十数か国語を操り、記憶力は近所の本を借りて丸暗記し家で書き写すレベル。それでいて酒癖と奇行で知られ、裸で標本採集に没頭したり、気に入らない相手に暴れたりと、伝説とエピソードに事欠かない人物である。森にこだわり、生態系の破壊に反対した点では日本における「エコロジー」思想の先駆者ともいわれる。
規格外の天才少年[編集]
和歌山の金物商の家に生まれる。少年期から『和漢三才図会』など大部の書物を借りては家で筆写し、丸ごと頭に入れてしまったという。東京大学予備門に進むが、ここでの同期に夏目漱石・正岡子規・秋山真之がいたとされる。しかし熊楠は学校の制度になじめず中退してしまう。
アメリカ・キューバ放浪[編集]
1887年に渡米。ミシガンやフロリダ、キューバを巡り、菌類・地衣・藻類を採集してまわった。アカデミズムの外で、ひたすら自分の関心のおもむくまま標本と知識を集める独学のスタイルは、生涯変わらなかった。
ロンドン時代と大英博物館[編集]
1892年から1900年までロンドンに滞在。大英博物館に出入りして東洋関係資料の整理にあたり、東西の学問を吸収した。1893年には科学誌『ネイチャー』に「東洋の星座」を発表、以後同誌に多数の論考を寄せて欧州の学界で一目置かれる存在となった。亡命中の孫文と親交を結んだのもこの頃である。
帰国と田辺の粘菌[編集]
1900年に帰国し、和歌山県田辺に腰を据える。在野の研究者として粘菌(変形菌)の研究に没頭し、新属新種「ミナカテルラ・ロンギフィラ」が彼の名にちなんで命名されるなど、世界的な業績を残した。1929年には南紀行幸の際、昭和天皇に粘菌の標本を進講。標本をキャラメルの空き箱に入れて献上したという逸話はあまりに有名である。
神社合祀反対運動[編集]
明治末、政府が進めた神社合祀政策は、各地の鎮守の森を伐採・荒廃させた。熊楠はこれに猛反対し、森を失うことが生態系(彼はこれを生物の連環としてとらえた)を破壊すると訴え続けた。神島の森の保護に尽力し、世界遺産・熊野古道の自然が守られた背景にも彼の運動があったとされる。自然保護を「学問」として根拠づけた点で時代を大きく先取りしていた。
民俗学と柳田國男[編集]
熊楠は柳田國男と膨大な往復書簡を交わし(『南方二書』)、日本の民俗学の草創期に深く関わった。説話・伝承の比較研究や『十二支考』など、博物学と民俗学を地続きにとらえる発想は独自のもので、後の折口信夫や宮本常一らの仕事ともゆるやかに響き合う。もっとも、柳田とは学問観の違いから次第に距離が生じたともいわれる。
余談[編集]
- 酒に酔うと暴れる癖があり、しばしば騒動を起こしたが、その奔放さも含めて伝説化している。
- 「南方マンダラ」と呼ばれる独自の知のモデルを構想し、東洋的な世界観で森羅万象の関係性を描こうとした。
- 生家の和歌山と終焉の地・田辺には記念館があり、膨大な蔵書・標本・日記が研究の宝庫となっている。
関連項目[編集]
- 柳田國男 - 往復書簡を交わした民俗学の盟友
- 折口信夫 - 同時代を代表する民俗学者・歌人
- 宮本常一 - 後続世代の民俗学者
- 夏目漱石 - 大学予備門の同期とされる
- 正岡子規 - 大学予備門の同期とされる
- 岡本太郎
- MissAV
- FANZA
- 稲垣莉生
- 丸の内OLレイナ