小山内薫

概要[編集]

築地小劇場土方与志とともに立ち上げ、「演出家」という職能を日本に根づかせた新劇の父。劇作家・演出家・批評家・小説家とマルチに動き回り、明治末から昭和初期の日本演劇をまるごと近代化したキーパーソンらしい。47歳で突然この世を去る最後まで、つねに最前線にいた人である。


小山内薫
おさない かおる
誕生日 1881年7月26日
死亡日 1928年12月25日
死亡年齢 47歳
出身地 広島県広島市
国籍 日本
職業 劇作家・演出家・批評家・小説家
肩書 築地小劇場創設者
活動期間 1900年代〜1928年
代表的な実績 自由劇場・築地小劇場
別名 新劇の父


生い立ちと文学[編集]

1881年、広島に生まれ東京で育った。東京帝国大学英文科に進み、在学中から文芸誌で健筆をふるう。1907年に第二次『新思潮』を創刊し、谷崎潤一郎芥川龍之介ら若い才能を世に送り出す目利きとしても知られた。森鷗外の観潮楼歌会にも出入りし、近代文学のど真ん中で育った人らしい。

自由劇場[編集]

1909年、歌舞伎役者の二代目市川左團次と組んで自由劇場を旗揚げ。第一回公演はイプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』で、歌舞伎の役者に西洋近代劇を演じさせるという大胆な実験だった。これが日本の新劇運動の出発点のひとつとされる。歌舞伎の様式を脱し、戯曲のリアリズムを舞台に持ち込もうとした最初の本格的試みである。

築地小劇場[編集]

1924年、ドイツ留学から帰った若き土方与志の私財をもとに、両者で築地小劇場を創設した。日本初の新劇専門の常設劇場で、こけら落としはラインハルト・ゲーリングの表現主義劇『海戦』。小山内はここで脚本・俳優・装置・照明を統括する「演出家」という近代的職能を確立した。千田是也杉村春子村山知義ら、後の演劇界を背負う面々がこの劇場から巣立っていったのだから、その影響力はとてつもない。

早すぎる死[編集]

1928年12月25日、小山内は心臓麻痺により47歳で急死した。築地小劇場はわずか4年で大黒柱を失い、やがてプロレタリア演劇派の土方与志系と、リアリズム派に分裂していく。後者の流れは岸田國士久保田万太郎獅子文六の文学座へ、前者は千田是也の俳優座へとつながり、戦後新劇の二大潮流を形づくった。

余談[編集]

  • 弟子筋の杉村春子は「何が彼女をさうさせたか」のオルガン奏者役(セリフなし)で築地小劇場に初舞台を踏んだ。
  • 演出家という言葉が職業として定着したのは小山内以降で、それまでは「座頭」や「立作者」が現場を仕切っていた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]