概要[編集]
画家・小説家・劇作家・演出家・舞台装置家・建築家・ダンサー…と肩書が渋滞している、大正昭和の万能型前衛芸術家。ダダイズム集団マヴォ(MAVO)を率い、のちプロレタリア演劇の中心となった。子ども向けの絵物語も多く手がけた、底の知れない人らしい。
| 村山知義 むらやま ともよし | |
|---|---|
| 誕生日 | 1901年1月18日 |
| 死亡日 | 1977年3月22日 |
| 死亡年齢 | 76歳 |
| 出身地 | 東京府 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 美術家・劇作家・演出家・小説家 |
| 肩書 | 日本演出者協会初代理事長 |
| 活動期間 | 1920年代〜1977年 |
| 代表的な実績 | マヴォ結成・新協劇団 |
ベルリンの衝撃[編集]
1901年、東京生まれ。第一高等学校から東京帝大文学部哲学科に進むが同年に退学し、原始キリスト教を学ぶためベルリンへ渡る。ところが現地で出会ったカンディンスキー、シャガール、アーキペンコらの前衛芸術にやられて画家へ転向。「コンストラクチオン」などダダ・構成主義の作品を制作した。
マヴォ(MAVO)[編集]
1923年に帰国すると、柳瀬正夢・尾形亀之助らとダダイズム集団マヴォを結成し、翌年には機関誌『マヴォ』も創刊した。絵画の枠を飛び出し、廃物を貼り付けた立体や、街頭でのパフォーマンス、建築・印刷・舞台までを巻き込む総合芸術運動を展開。日本の前衛美術史で外せない一大事件だった。
演劇への転身[編集]
1924年、築地小劇場公演『朝から夜中まで』の舞台装置を担当し、構成派的なセットが演劇界で注目された。やがてプロレタリア演劇運動の中心人物となり、代表作『暴力団記』(1929)などを発表。装置家・演出家・劇作家として八面六臂の活躍を見せた。
戦後と多才ぶり[編集]
弾圧と転向をくぐり抜け、戦後は新協劇団を再建。1959年には劇団中芸と合同して東京芸術座となった。日本演出者協会の初代理事長も務めている。小説『忍びの者』は映画・テレビでヒットし、児童向けの絵物語も数多く残した。一人で何役こなすのか分からない、規格外のマルチアーティストだった。
余談[編集]
- 妻の村山籌子(かずこ)は児童文学作家で、夫婦で絵本・童話を多く手がけた。
- MAVOのメンバーは展覧会の搬入を拒まれると会場前で抗議パフォーマンスをやるなど、とにかく過激でアナーキーだった。