| 宮本常一 みやもと つねいち | |
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| ファイル:宮本常一.jpg | |
| 本名 | 宮本常一 |
| 誕生日 | 1907年8月1日 |
| 死亡日 | 1981年1月30日 |
| 死亡年齢 | 73歳 |
| 出身地 | 山口県大島郡(周防大島町) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 天王寺師範学校卒 |
| 職業 | 民俗学者 |
| 肩書 | 武蔵野美術大学教授/日本観光文化研究所所長 |
| 活動期間 | 1930年代 - 1981年 |
| 代表的な実績 | 『忘れられた日本人』/日本全国のフィールドワーク |
| 関連活動 | アチック・ミューゼアム |
概要[編集]
宮本常一(みやもと つねいち、1907-1981)は、とにかく日本中を歩き続けた民俗学者。生涯の旅は4000日以上、移動距離は地球4周分(約16万キロ)とも言われ、泊めてもらった民家は1200軒以上。「日本一歩いた学者」の異名にふさわしい、規格外のフィールドワーカーである。
柳田國男の民俗学が文献や全国規模の体系づくりに向かったのに対し、宮本は名もなき庶民、とりわけ老人たちの語りに徹底して耳を傾けた。その代表作『忘れられた日本人』は、いまも読み継がれる民俗学の古典である。
周防大島と教員時代[編集]
瀬戸内海に浮かぶ周防大島(山口県)の農家に生まれる。家は貧しかったが、祖父や父から土地の暮らしや言い伝えをたっぷり聞いて育った。大阪で小学校教員を務めるかたわら、柳田國男の著作に触れて民俗学に開眼していく。
渋沢敬三との出会い[編集]
宮本の運命を変えたのが、財界人にして民俗学の大パトロン・渋沢敬三との出会いだった。渋沢の私設研究所「アチック・ミューゼアム」(屋根裏の博物館)の食客に迎えられ、「カネは出すが口は出さない」渋沢の支援のもと、宮本は本格的な民俗調査に専念できるようになった。
ひたすら歩く[編集]
宮本の研究スタイルは、ともかく現地に行き、土地の人の家に泊めてもらい、暮らしと語りを記録すること。生涯にわたって日本各地の村々・離島を歩き回り、膨大な写真(10万枚とも)とフィールドノートを残した。便利な交通手段が乏しい時代に、歩いて全国をくまなく回ったその執念は語り草になっている。
『忘れられた日本人』[編集]
1960年刊の『忘れられた日本人』は、宮本民俗学の代表作。村の寄り合いの民主主義を活写した「対馬にて」、盲目の老人が語る性と人生の物語「土佐源氏」など、文字を残さなかった無名の人々の声を生き生きと記録した。歴史の表舞台に出てこない庶民の暮らしと知恵を掘り起こしたこの本は、民俗学を超えて広く読まれる名著となった。
離島振興と社会教育[編集]
宮本はただ記録するだけでなく、離島振興や農村の地域づくりにも力を注いだ。離島振興法の成立に関わり、各地で講演し、地域の人々が自分たちの暮らしに誇りを持てるよう働きかけた。晩年は武蔵野美術大学教授、日本観光文化研究所所長として後進を育てた。
余談[編集]
- 父・善十郎が旅立つ宮本に与えた「十か条の教え」(旅先ではまず高い所に登って土地を見渡せ、など)は、彼の生涯の指針になったと語られる。
- 南方熊楠や折口信夫と同じく、宮本もまた在野的なまなざしで日本の基層文化に迫った民俗学者として位置づけられる。