丸山晩霞

丸山晩霞
Maruyama Banka
本名 丸山 健作
誕生日 1867年6月5日
出身地 信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市)
国籍 日本
居住地 長野県祢津村
学歴 彰技堂
職業 水彩画家
活動期間 1880年代 - 1942年
代表的な実績 明治水彩画の普及、高山植物・山岳の水彩
関連活動 太平洋画会、日本山岳画協会創立


概要[編集]

丸山晩霞(まるやま ばんか、1867-1942)は、明治の水彩画ブームを牽引した信州出身の水彩画家。本名は健作。吉田博の盟友であり、山や高山植物を愛し、信濃の自然を瑞々しい水彩でとらえ続けた「郷愁の画家」である。日本人の水彩画家として早くから海外でも個展を開いた、知られざる国際派でもあるらしい。

吉田博との出会い[編集]

信濃国小県郡祢津村(現・長野県東御市)に生まれた。1888年に彰技堂に入門して明治美術会展に出品し、画家としての一歩を踏み出す。人生の転機は1895年、群馬県沼田あたりで写生をしていたときに吉田博と出会い、その水彩画に強い感銘を受けたことだった。意気投合した二人は1898年、「日本アルプス写生旅行」を敢行。山岳を写生して回るこの旅は、日本の山岳画・水彩画にとって記念碑的なものとなった。

海を渡った水彩画家[編集]

1900年には渡米し、鹿子木孟郎・満谷国四郎・河合新蔵・吉田博中川八郎らとともに「日本人水彩画家6人展」をボストンのアートクラブで開催、大成功を収めた。明治の日本人画家がアメリカで水彩のグループ展を開いて喝采を浴びたというのは痛快な話で、晩霞らの進取の気性がうかがえる。帰国後の1902年、明治美術会を改めた「太平洋画会」の創立に加わった。

小諸義塾と島崎藤村[編集]

晩霞は故郷に近い小諸義塾の水彩画教師も務め、ここで作家の島崎藤村と交友を結んだ。藤村が『千曲川のスケッチ』に描いた信州の風土と、晩霞の水彩が見つめた信濃の自然は、どこか響き合うものがある。教育者としても、水彩画の普及に大きな役割を果たした。

山岳画と晩年[編集]

晩年も山への情熱は衰えず、1936年には日本山岳画協会の創立に参加した。故郷の祢津村にアトリエ「羽衣荘」を構え、太平洋画会・日本水彩画会・日本山岳画協会に毎年作品を出し続けた。高山植物を生き生きと描いた作品群は、植物画としても高く評価されている。1942年、76歳で死去。現在、東御市の丸山晩霞記念館にその画業が伝えられている。

余談[編集]

  • 吉田博とは終生の画友で、二人の山岳写生旅行は日本の山岳絵画史のはじまりとも語られるらしい。
  • 高山植物を愛し、登山と写生を一体にした制作スタイルは、のちの山岳画家たちの先駆けとなった。

関連項目[編集]