| 石川淳 Ishikawa Jun | |
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| ファイル:石川淳.jpg | |
| 本名 | 石川淳 |
| 誕生日 | 1899年3月7日 |
| 死亡日 | 1987年12月29日 |
| 死亡年齢 | 88歳 |
| 出身地 | 東京 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京外国語学校フランス語科 |
| 職業 | 小説家・評論家・翻訳家 |
| 肩書 | 無頼派(新戯作派)/日本芸術院会員 |
| 活動期間 | 1935年 - 1987年 |
| 代表的な実績 | 《普賢》(芥川賞)《焼跡のイエス》、博覧強記の文体 |
| 受賞 | 芥川賞(第4回) |
| 別名 | 夷斎(号) |
概要[編集]
石川淳(いしかわ じゅん、1899年3月7日 - 1987年12月29日)は、昭和を代表する小説家・評論家・翻訳家。古今東西の教養を自在に操る博識と、軽妙にして反骨に満ちた文体で知られ、「無頼派の教養人」と称される。
太宰治・坂口安吾・織田作之助らとともに「無頼派(新戯作派)」に数えられるが、破滅型の私小説とは一線を画し、知性と批評精神を武器にした異色の無頼派だったらしい。号は夷斎(いさい)。
生い立ちと出発[編集]
東京に生まれた。東京外国語学校フランス語科を卒業し、フランス文学(とりわけアナトール・フランスやジッド)に親しんだ。慶應義塾大学などでフランス語を教えたのち、1935年に『佳人』で小説家としてデビューする。出発点から翻訳・評論・創作を横断する、教養人らしい多面的な活動が特徴だった。
『普賢』と発禁事件[編集]
1936年、中世の神秘思想を現代に重ねた『普賢』で第4回芥川賞を受賞し、文壇での地位を確立した。しかしその直後、『文学界』に発表した「マルスの歌」が反戦的とみなされ発禁処分を受ける。時局に抗する反骨の姿勢は、戦後の活動にも一貫して流れている。
戦後・無頼派として[編集]
敗戦後の1946年、焼け跡の闇市にうごめく人間を描いた『焼跡のイエス』を発表。混沌とした戦後社会を、聖性と猥雑さを同居させた独特の筆致で活写し、大きな反響を呼んだ。『処女懐胎』などとともに、太宰治・坂口安吾・織田作之助らと並んで「無頼派」と称される所以である。ただし石川の作品は、破滅的な自己暴露よりも、博覧強記に裏打ちされた知的な構築性が際立っていた。
後年[編集]
戦後は江戸文学(とくに大田南畝など)の研究や評論でも独自の境地を開き、『諸国畸人伝』『江戸人の発想法について』など随筆・評論にも名品が多い。1963年に日本芸術院会員に選出。1967年には文化大革命に際し、三島由紀夫・川端康成・安部公房と連名で学問・芸術の自律を擁護する共同声明を出し、思想統制を批判した。晩年まで旺盛な創作を続け、1987年、長編『蛇の歌』連載中に88歳で世を去った。
評価[編集]
無頼派のなかでも最も長命で、最も知的だった作家。私小説の伝統から自由な、フィクションの構築力と批評精神は、後続の作家に大きな影響を与えた。太宰治の弱さ、坂口安吾の豪放とはまた違う、「教養と反骨」という第三の無頼のかたちを示した点で、近代文学史に独自の位置を占める。
余談[編集]
- 古典から現代思想までを縦横に引用する文章は難解ともいわれるが、その軽やかなリズムにハマる読者は多い。
- 戦中は時局に背を向けて古典に沈潜し、「沈黙の抵抗」を貫いたとも評される。