| 織田作之助 Oda Sakunosuke | |
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| ファイル:織田作之助.jpg | |
| 誕生日 | 1913年10月26日 |
| 死亡日 | 1947年1月10日 |
| 死亡年齢 | 33歳 |
| 出身地 | 大阪市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 第三高等学校中退 |
| 職業 | 小説家 |
| 活動期間 | 1930年代 - 1947年 |
| 代表的な実績 | 『夫婦善哉』、無頼派(新戯作派)の代表 |
| 別名 | 織田作(おださく) |
概要[編集]
織田作之助(おだ さくのすけ、1913年 - 1947年)は、大阪を愛し大阪を描き続けた小説家。戦後、坂口安吾・太宰治(平文)・石川淳(平文)らとともに「無頼派(新戯作派)」と呼ばれ、「織田作(おださく)」の愛称で親しまれた。出世作『夫婦善哉』で庶民の哀歓を活写し、わずか33年の短い生涯を駆け抜けた、大阪文学を代表する作家である。
大阪の作家[編集]
大阪・生玉前町の仕出し屋の家に生まれた。第三高等学校に進むが中退し、文学にのめり込む。スタンダールに傾倒し、『赤と黒』を愛読したことでも知られる。織田の小説の最大の特徴は、なんといっても徹底した「大阪」へのこだわりで、法善寺横丁や夫婦善哉の店など、ミナミの庶民の暮らしを生き生きと描いた。
『夫婦善哉』[編集]
1940年に発表した『夫婦善哉』は織田の出世作で、改造社の第一回文芸推薦作品に選ばれ、本格的な作家生活の出発点となった。頼りない男・柳吉と、しっかり者の芸者・蝶子の凸凹コンビが、何度もつまずきながらも寄り添って生きていく姿を、上方の人情とユーモアたっぷりに描いた名作。法善寺横丁の善哉(ぜんざい)の店が物語の象徴として登場し、今も観光名所になっているほどである。
無頼派として[編集]
戦後、既成の文学への反逆と退廃的・反俗的な作風で時代を駆け抜けた作家たちが「無頼派」「新戯作派」と呼ばれた。その中心が坂口安吾・太宰治・織田作之助で、石川淳・田中英光らも数えられる。庶民の現実にあたたかいまなざしを向けた織田の作風は、自意識を赤裸々に綴った太宰とも、痛烈な批評精神の坂口安吾とも違う、独特のぬくもりがあった。『世相』『競馬』『可能性の文学』などを矢継ぎ早に発表し、戦後文壇の寵児となる。
早すぎる晩年[編集]
結核を患いながら猛烈な勢いで執筆を続けたが、1947年1月、喀血により34歳(数え年)で世を去った。最初の妻・一枝に先立たれてからは、その写真と遺髪を肌身離さず持ち歩いていたという。盟友・坂口安吾は織田の死を深く悼み、追悼の文章を遺している。
余談[編集]
- 「オダサク」の愛称は今も大阪で親しまれ、地元では文学碑やゆかりの地巡りが楽しまれている。
- 太宰治は織田の死に際して『織田くんの死』という一文を寄せており、無頼派の絆の深さがうかがえる。