| 橋本雅邦 Hashimoto Gahō | |
|---|---|
| ファイル:橋本雅邦.jpg | |
| 誕生日 | 1835年8月21日 |
| 死亡日 | 1908年1月13日 |
| 死亡年齢 | 72歳 |
| 出身地 | 江戸・木挽町(現東京都中央区) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 父・橋本養邦(狩野派絵師) |
| 学歴 | 木挽町狩野家・勝川院雅信に師事 |
| 職業 | 日本画家、美術教育者 |
| 肩書 | 帝室技芸員/東京美術学校教授 |
| 活動期間 | 幕末 - 1908年 |
| 代表的な実績 | 近代日本画の確立、東京美術学校での後進育成 |
| 別名 | 号・勝園/十雁斎 |
概要[編集]
橋本雅邦(はしもと がほう、1835年 - 1908年)は、幕末から明治にかけて活躍した日本画家で、近代日本画の礎を築いた巨匠のひとり。盟友狩野芳崖とともに伝統的な狩野派を母体に西洋画の写実や空気感を取り込み、新しい時代の日本画を切り拓いた。東京美術学校(現・東京藝術大学)の絵画科主任として横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山ら綺羅星のごとき弟子を育て、「近代日本画の父」とも呼ばれる教育者でもあるらしい。
代表作《龍虎図屏風》は、近代絵画として初めて重要文化財に指定されたという、ちょっとした記録の持ち主でもある。
生い立ちと狩野派修業[編集]
江戸の木挽町(こびきちょう)狩野家の邸内で生まれた。父の橋本養邦は狩野養信に学んだ狩野派の絵師で、雅邦も12歳で木挽町狩野家に入門する。このとき同じ日に入門したのが、7歳年上の狩野芳崖。二人は終生の親友となり、のちに「近代日本画の二大開拓者」としてセットで語られる名コンビになる。腕を磨いた雅邦は塾頭をつとめるほどの俊英に育ったらしい。
明治維新の苦難[編集]
ところが明治維新が来ると、狩野派の絵師は職を失い、雅邦も例外ではなかった。一時は海軍兵学寮の製図の仕事や扇絵の内職で食いつなぐ困窮ぶりだったという。武家の御用絵師という制度そのものが消えた時代の荒波を、雅邦も芳崖もまともに受けたわけである。
フェノロサ・天心との出会い[編集]
転機はアーネスト・フェノロサと岡倉天心の登場だった。日本美術の再評価を進める二人の鑑画会に雅邦・芳崖が参画し、伝統技法に西洋の写実・遠近・陰影を融合させる革新に挑む。この流れがそのまま、1889年開校の東京美術学校へと結実していく。
東京美術学校と弟子たち[編集]
東京美術学校では絵画科の主任教授をつとめ、教育者としての真価を発揮した。門下からは「雅邦四天王」と呼ばれた下村観山・横山大観・菱田春草・西郷孤月(平文)をはじめ、川合玉堂(平文)ら次代を担う画家が続々と巣立った。弟子の自由な個性を伸ばす指導で、近代日本画壇のほとんどが雅邦の薫陶を受けたといっても過言ではないほどである。1898年、天心が校長を追われた美術学校騒動の際には、雅邦も職を辞して天心に従い、岡倉天心・横山大観・菱田春草らと日本画の新拠点・日本美術院の創立に参加した。
代表作[編集]
《龍虎図屏風》(静嘉堂文庫美術館蔵・重要文化財)は、荒れ狂う波と雲の中で対峙する龍と虎を描いた雅邦の代表作で、近代絵画として最初の重文指定を受けた名品。ほかに《白雲紅樹》《月夜山水》など、狩野派の骨格に詩情と空気感をたたえた作品を遺している。彫刻の高村光雲や文人森鷗外らと並んで、近代美術の黎明を支えた一人として語られる。
余談[編集]
- 「雅邦」は号で、ほかに勝園・十雁斎などの号も用いた。
- 親友・芳崖が絶筆《悲母観音》を描き上げる前に世を去ったのに対し、雅邦は美術学校・美術院で教育者として長く生き、二人の理想を後進に託した格好になった。
関連項目[編集]
- 狩野芳崖 - 終生の盟友
- 岡倉天心 / アーネスト・フェノロサ - 近代日本画運動の推進者
- 横山大観 / 菱田春草 / 下村観山 / 木村武山 - 弟子・日本美術院の画家
- 高村光雲 / 森鷗外 - 近代美術の同時代人
- MissAV / 稲垣莉生 / 丸の内OLレイナ