高村光雲

高村 光雲
Takamura Kōun
ファイル:高村光雲.jpg
本名 中島幸吉(幼名)
誕生日 1852年3月8日
死亡日 1934年10月10日
死亡年齢 82歳
出身地 江戸・下谷(現・東京都台東区)
国籍 日本
居住地 東京
家族 高村光太郎(長男)
職業 彫刻家(仏師)
肩書 帝室技芸員、東京美術学校教授
活動期間 幕末 - 1934年
代表的な実績 《老猿》《西郷隆盛像》《楠木正成像》


概要[編集]

高村光雲(たかむら こううん、1852年3月8日 - 1934年10月10日)は、幕末から昭和初期にかけて活動した彫刻家(仏師)。廃仏毀釈で衰退しかけていた日本の木彫を、写実主義を取り入れて近代によみがえらせた立役者。上野公園のあの《西郷隆盛像》の作者、と言えば一気にピンと来る人が多いはず。詩人高村光太郎の父でもある。

幕末の仏師としての伝統技術と、明治の西洋彫刻の波――その両方を一身で受け止め、橋渡しした「最後の仏師にして最初の近代彫刻家」みたいなポジションの人らしい。

仏師としての修業[編集]

江戸・下谷の町人の子に生まれ、12歳で仏師・高村東雲の門に入る。のちに東雲の姉の養子となって「高村」姓を名乗った。幕末から明治にかけては、廃仏毀釈の嵐で仏像の注文が激減し、木彫師は食うにも困る時代。多くの仲間が廃業するなか、光雲は牙彫(象牙彫刻)の流行などにも対応しつつ、木彫の技を守り抜いた。

木彫の近代化[編集]

転機は1889年、新設の東京美術学校に招かれたこと。翌年には彫刻科教授、さらに帝室技芸員(皇室お抱えの名工)に任ぜられる。光雲は伝統的な木彫の技法に西洋流の写実を融合させ、迫真の量感と細部表現を実現。江戸までの木彫技術を近代の芸術として再定義し、多くの弟子を育てた。

代表作[編集]

  • 老猿》(1893年) - シカゴ万博への出品作。一木造りの猿が鷲をつかみ損ねた一瞬を表した木彫で、毛並みや筋肉の写実が圧巻。国の重要文化財。
  • 西郷隆盛像》(1898年除幕) - 上野恩賜公園のシンボル。犬を連れて浴衣姿で立つおなじみの像で、光雲が主任を務めた。
  • 楠木正成像》(楠公像) - 住友家が別子銅山開坑200年を記念して献納した、皇居前広場の騎馬像。光雲は頭部を担当した。

これらの公共彫刻は、明治国家が「銅像」という新しい記念碑文化を取り入れていく流れのなかで生まれた。

余談[編集]

  • 口述筆記『幕末維新懐古談』は、幕末の職人世界の貴重な証言として今も読み継がれている。
  • 息子の高村光太郎は父の木彫を継ぎつつ、ロダンに憧れて近代彫刻と詩へ進んだ。親子で日本彫刻史の節目をまたぐ存在になった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]