恩地孝四郎

恩地孝四郎
おんち こうしろう
誕生日 1891年7月2日
死亡日 1955年6月3日
死亡年齢 63歳
出身地 東京府南豊島郡淀橋町
国籍 日本
学歴 東京美術学校西洋画科中退
職業 版画家・装幀家・詩人
活動期間 1910年代〜1955年
代表的な実績 日本抽象版画の父/『月映』/『抒情』シリーズ


概要[編集]

恩地孝四郎(おんち こうしろう、1891年7月2日 - 1955年6月3日)とは、日本の版画家・装幀家・詩人。「日本抽象版画の父」と呼ばれ、自画・自刻・自摺の創作版画運動を理論と実作の両面で牽引した巨人らしい。1915年に発表した『抒情』シリーズは日本の近代美術で最初期の抽象作品とされ、カンディンスキーらドイツ表現主義の抽象版画にいち早く共鳴した先見性で知られる。一方で萩原朔太郎『月に吠える』をはじめ膨大な装幀を手がけた「本の芸術家」でもあった。

生い立ち[編集]

東京府の淀橋町に生まれる。父・恩地轍は東京地方裁判所検事からのち宮内省式部職を務めたエリートで、恩地はその家に育った。1910年に東京美術学校予備科の西洋画科に入り、のち彫刻も学んだが間もなく中途退学している。アカデミックな絵画教育より、自分の内面を直接かたちにする版画と詩に惹かれていったらしい。

『月映』と抽象の発見[編集]

1914年、日比谷美術館で開かれた木版画展でワシリー・カンディンスキーらドイツ表現主義の抽象版画に深く感動し、この頃から本格的に版画制作を始めたとされる。同年、盟友の田中恭吉・藤森静雄とともに詩と版画の同人誌『月映(つくはえ)』を創刊。私輯6冊ののち、9月には洛陽堂から公輯が刊行された。夭折した田中恭吉の鮮烈な作品とともに、『月映』は創作版画運動の記念碑となった。翌1915年には『抒情』シリーズで、日本近代美術における最初期の抽象表現に到達している。

装幀家として[編集]

1917年に萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵・装丁を手がけて以降、装本を生業のひとつとした。1928年の『北原白秋全集』(北原白秋)の装本で装本家としての地位を確立し、生涯に手がけた装幀は膨大な数にのぼる。「本一冊を一個の芸術作品として設計する」という思想は、日本のブックデザインの源流とされる。

抽象版画への回帰[編集]

戦後は再び抽象版画に没頭し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズを同時並行で制作した。多色木版にとどまらず紙や物体を直接刷る実験も重ね、戦後日本の前衛版画に道を開いた。1955年6月3日、杉並区の自宅で病状が急変して死去。63歳没。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]