| 川田順 | |
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| ファイル:川田順.jpg | |
| 本名 | 川田 順 |
| 出身地 | 東京 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京帝国大学 |
| 職業 | 歌人・実業家 |
| 代表的な実績 | 『鷲』『定家』、「老いらくの恋」 |
| 関連活動 | 住友総本社理事 |
概要[編集]
川田順(かわだ じゅん、1882年1月15日 - 1966年1月22日)は、日本の歌人・実業家。佐佐木信綱門下の竹柏会・歌誌『心の花』を代表する歌人でありながら、本業はなんと住友財閥の大幹部という、二足のわらじを履いた異色の人物。歌人としては木下利玄らと「心の花の三羽烏」と並び称された実力派だが、世間的には晩年の「老いらくの恋」というスキャンダラスな流行語の主として記憶されている。
住友マンと歌人の二刀流[編集]
東京帝国大学法科を卒業後、1907年に住友総本社に入社。エリート街道をひた走り、1930年には理事、さらに常務理事へと一足飛びに昇進した。1936年には住友の総帥たる総理事の座がほぼ確定していたというが、「自らの器に非ず」として自ら退いた。財界の頂点を目前に潔く身を引くあたり、いかにも歌人らしい美学である。実業のかたわら、若き日から佐佐木信綱に師事して作歌を続けた。
心の花の三羽烏[編集]
佐佐木信綱が主宰する竹柏会・歌誌『心の花』にあって、川田順は木下利玄・新井洸(平文)とともに明治・大正期の「三羽烏」と称された。歴史や古典に取材した格調高い歌を得意とし、歌集『鷲』『定家』などを残した。武将や歴史上の人物を詠んだ叙事的な作風には、財界人としての気骨もにじむ。
老いらくの恋[編集]
川田の名を一躍世間に広めたのが、戦後の「老いらくの恋」騒動である。1944年から、人妻で歌人の鈴鹿俊子の作歌指導にあたるうち二人は恋に落ち、1947年に告白。1948年に俊子は離婚し、翌1949年、67歳の川田は俊子と再婚した。このとき詠んだ「墓場に近き老いらくの恋」の一首から「老いらくの恋」が流行語になった。当時としては大スキャンダルだったが、晩年の純愛として今ではむしろ微笑ましく語られる。
評価[編集]
財界人・歌人という二つの世界を高い水準で生き抜いた稀有な存在として、近代短歌史に独特の位置を占める。師の佐佐木信綱、兄弟弟子の木下利玄をはじめ、与謝野晶子・若山牧水・斎藤茂吉ら同時代の歌人たちと並んで、明治・大正・昭和を通じて歌い続けた。晩年は妻・俊子とともに藤沢に暮らした。
余談[編集]
- 父の川田甕江は明治の漢学者で、川田家は学問の家系だった。
- 「老いらくの恋」は当人にとっては真剣そのものだったが、世間の好奇の目にさらされ、川田は一時かなり苦しんだとも伝わる。