木下利玄

木下利玄
きのした りげん
ファイル:木下利玄.jpg
本名 木下利玄
誕生日 1886年1月1日
死亡日 1925年2月15日
死亡年齢 39歳
出身地 岡山県賀陽郡足守村(岡山市北区足守)
国籍 日本
学歴 東京帝国大学国文科卒
職業 歌人
肩書 子爵
活動期間 1900年代 - 1925年
代表的な実績 白樺派唯一の歌人/「利玄調」/歌集『一路』
関連活動 雑誌『白樺』同人


概要[編集]

木下利玄(きのした りげん、1886-1925)は、白樺派を代表する歌人。足守藩主家の流れをくむ子爵という名門の生まれでありながら、平易で口語的な独自の歌風「利玄調」を確立した。

文学グループ「白樺」のなかでは小説家が主流で、利玄はほぼ唯一の歌人という珍しいポジション。牡丹を詠んだ一首があまりに有名で、教科書でもおなじみの歌人である。39歳で早世したのが惜しまれる。

名門・子爵家の生まれ[編集]

岡山・足守の旧藩主家系に生まれ、幼くして木下子爵家を継ぐため上京した。学習院では武者小路実篤と同級になり、志賀直哉ら後の白樺派の面々と親交を結ぶ。この学習院での出会いが、利玄の文学人生を決めた。

短歌の修行[編集]

東京帝国大学国文科に進み、在学中は佐佐木信綱の主宰する竹柏会(歌誌『心の花』)に入門して短歌を学んだ。「竹柏会門下の逸材」と呼ばれる才能を見せる。

白樺派の歌人[編集]

1910年、武者小路実篤志賀直哉有島武郎里見弴柳宗悦らとともに雑誌『白樺』を創刊。利玄は散文や短歌を寄せ、白樺派でほぼ唯一の歌人として独自の位置を占めた。理想主義・人道主義を掲げる白樺派の空気のなかで、短歌という古い器を新しく使ってみせた。

利玄調[編集]

利玄の歌は、はじめ官能的・感傷的だったが、やがて島木赤彦ら写実派の影響を受けて自然主義・写実へと傾いていく。口語や日常語をそのまま取り込んだ平明な歌風は「利玄調」と呼ばれた。代表作「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」(歌集『一路』)は、咲ききった牡丹の存在感を静かにとらえた名歌として知られる。歌集に『銀』『紅玉』『一路』、没後に歌文集『李青集』がまとめられた。

余談[編集]

  • 子爵という高い身分でありながら、その歌はむしろ庶民的で親しみやすく、身分と作風のギャップが面白いと評される。
  • 1925年、結核のため39歳の若さで没した。白樺派の盟友たちに惜しまれた早世だった。
  • 岡山・足守には生家が県史跡として残り、白樺派ゆかりの地となっている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]