概要[編集]
牛久沼のほとりに住み、ユーモラスでどこか物悲しい河童(かっぱ)の絵を量産して「カッパの芋銭」と親しまれた日本画家・俳人。農民として土を耕しながら、妖怪や自然の精霊が遊ぶ夢幻の世界を描き続けた異色の人らしい。読みは「うせん」。
| 小川芋銭 おがわ うせん | |
|---|---|
| 本名 | 小川茂吉 |
| 誕生日 | 1868年3月11日 |
| 死亡日 | 1938年12月17日 |
| 死亡年齢 | 70歳 |
| 出身地 | 江戸(武蔵国) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 日本画家・俳人 |
| 肩書 | 日本美術院同人 |
| 活動期間 | 1890年代〜1938年 |
| 代表的な実績 | 『河童百図』 |
| 別名 | カッパの芋銭 |
農民画家の出発[編集]
1868年、牛久藩士の子として江戸に生まれ、3歳で常陸の牛久に移った。初めは洋画を学び、尾崎行雄の推挙で朝野新聞社に画工として入り、挿絵や時事漫画を描いた。だが1893年、家の農業を継ぐため帰郷。以後は田畑を耕しながら、妻の支えのもと新聞や雑誌に挿絵を寄せるという、半農半画の暮らしを長く続けた。
珊瑚会と日本美術院[編集]
1915年、平福百穂・川端龍子らと珊瑚会を結成し、本格的に日本画へ取り組み始める。その独特の画風が横山大観らの目に留まり、大観の推薦で日本美術院の同人に迎えられて中央画壇で注目を浴びた。遅咲きながら、農村に根ざした視点と俳味あふれる筆が高く評価された。
河童の画家[編集]
牛久沼の伝説を題材に、芋銭は生涯おびただしい数のカッパを描いた。とぼけた表情、水辺の気配、人と妖怪のあわい——その絵は「カッパの芋銭」として全国に知られる。最晩年には画商・俳画堂の求めに応じ、カッパの絵ばかりを集めた画集『河童百図』を刊行している。贋作が多いことでも有名なほど人気が高い。
俳人として[編集]
芋銭は俳句もよくし、画と句を一体にした俳画を得意とした。自然や農村の機微を軽やかにすくい取る句風で、絵にも詩情がにじむ。土と水のにおいのする芸術は、近代日本画のなかでも独特の位置を占めている。
余談[編集]
- 牛久沼畔の牛久市城中町には晩年のアトリエ「雲魚亭」が現存し、遺族が市に寄贈して記念館として公開されている。
- 河童を描かせたら右に出る者なし、と言われたが、本人は牛や馬、農民の暮らしも数多く描いている。