| 小堀鞆音 Kobori Tomoto | |
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| ファイル:小堀鞆音.jpg | |
| 本名 | 小堀鞆音 |
| 誕生日 | 1864年3月26日 |
| 死亡日 | 1931年10月1日 |
| 死亡年齢 | 67歳 |
| 出身地 | 下野国佐野(栃木県佐野市) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 日本画家 |
| 肩書 | 帝室技芸員/帝国美術院会員/東京美術学校教授 |
| 活動期間 | 1880年代 - 1931年 |
| 代表的な実績 | 歴史画《武士》、有職故実に基づく歴史人物画、安田靫彦らの育成 |
概要[編集]
小堀鞆音(こぼり ともと、1864年3月26日 - 1931年10月1日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家。有職故実の知識に裏打ちされた精緻な歴史画を得意とし、「近代日本歴史画の父」と呼ばれる。
安田靫彦をはじめ多くの歴史画家を育てた名教師でもあり、近代日本画における歴史画の系譜は鞆音から始まるといってよいらしい。
生い立ちと修業[編集]
下野国佐野(現・栃木県佐野市)に生まれた。15歳頃から父や兄に画を学び、はじめ狩野派を修めたのち、歴史人物画から大和絵へと進んだ。1884年には土佐派の絵と有職故実を川崎千虎に学ぶ。装束・武具・調度などの故実に通じたことが、のちの精密な歴史画の基盤となった。
歴史画の確立[編集]
鞆音は史実や古典に取材し、人物の装束や所作を考証にもとづいて正確に描く歴史画を確立した。代表作《武士(もののふ)》をはじめ、武者絵や故事人物画に名品を残す。考証の正確さと格調の高さは群を抜き、皇室関連の記録画なども手がけた。1917年に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員となり、画壇の重鎮として遇された。
教育者として[編集]
1895年に東京美術学校助教授、のち教授として歴史画の指導にあたった。1898年には安田靫彦が入門し、1902年には鞆音主唱の「歴史画風俗画研究会」が開かれた。ここで学んだ安田靫彦は、のちに前田青邨・小林古径とともに「院展三羽烏」として近代歴史画を大成する。鞆音の薫陶は、今村紫紅らの革新運動とは別の、考証と格調を重んじる歴史画の本流を育てた。
評価[編集]
橋本雅邦・岡倉天心らが日本画全体の近代化を進めたのに対し、鞆音は歴史画というジャンルに専門特化し、その水準を飛躍的に高めた。弟子の安田靫彦・前田青邨が描いた数々の歴史画の名作は、鞆音が築いた基礎の上に花開いたものである。
余談[編集]
- 有職故実への執着は徹底しており、一本の刀の佩き方、一枚の装束の重ね方まで考証を怠らなかったという。
- 佐野市には小堀鞆音を顕彰する施設があり、郷土の偉人として親しまれている。