今村紫紅

今村紫紅
Imamura Shikō
ファイル:今村紫紅.jpg
本名 今村寿三郎
誕生日 1880年12月16日
死亡日 1916年2月28日
死亡年齢 35歳
出身地 神奈川県横浜市
国籍 日本
職業 日本画家
肩書 再興日本美術院同人
活動期間 1900年代 - 1916年
代表的な実績 《近江八景》《熱国之巻》、赤曜会の結成、日本画の革新
別名 紫紅(号)


概要[編集]

今村紫紅(いまむら しこう、1880年12月16日 - 1916年2月28日)は、明治末から大正初めにかけて活躍した日本画家。大胆な色彩と自由な構成で旧来の日本画を解放し、「日本画の革命児」と呼ばれた革新者。

35歳で急逝した夭折の鬼才でありながら、再興日本美術院の若手を牽引し、近代日本画の方向を大きく変えたという、短くも濃密な画家人生を生きた人物らしい。

修業と紅児会[編集]

横浜に生まれ、本名は寿三郎。歴史画の松本楓湖に師事した。1900年、生涯の盟友となる安田靫彦らの研究会「紫紅会」に加わるが、会名と紫紅の号が同じだったため会名を「紅児会」と改めたという逸話が残る。紅児会には小堀鞆音門の安田靫彦をはじめ、若き革新派が集い、岡倉天心の指導も受けた。

院展再興と革新[編集]

1914年(大正3年)、岡倉天心の没後に横山大観下村観山らが日本美術院を再興すると、紫紅はその中心的存在となった。同年にはインドへ渡航してその色彩感覚に刺激を受け、帰国後は《熱国之巻》などで南国的な濃彩と装飾性を打ち出した。点描風の技法や琳派の再評価など、その実験精神は若い同人たちを大いに刺激した。

赤曜会[編集]

紫紅は後輩を糾合して研究会「赤曜会」を結成し、前田青邨小林古径ら次世代の旗手を導いた。旧弊な歴史画から脱し、自由で個性的な表現を追求するその姿勢は、再興院展の革新性を象徴するものだった。盟友安田靫彦とともに、近代日本画の青春期を牽引した。

早すぎる死と評価[編集]

しかし1916年、紫紅は脳溢血のため35歳で急逝してしまう。あまりにも早い死は画壇に大きな衝撃を与えた。残された安田靫彦前田青邨小林古径らは「院展三羽烏」として紫紅の遺志を継ぎ、近代日本画を大成させていく。短い生涯ながら、紫紅がまいた革新の種は確実に実を結んだのである。2026年には横浜美術館で「没後110年」の回顧展が開かれ、再評価が進んでいる。

余談[編集]

  • 横山大観菱田春草の朦朧体が「線を消す」革新だったのに対し、紫紅の革新は「色彩と構成の解放」にあったと対比されることが多い。
  • インド旅行で得た強烈な色彩体験は、同時代の岡倉天心のアジア観とも響き合うものだった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]