寺崎広業

寺崎広業
てらさき こうぎょう
ファイル:寺崎広業.jpg
本名 寺崎広業(幼名・専二郎)
誕生日 1866年
死亡日 1919年2月21日
出身地 出羽国秋田郡(現・秋田県秋田市)
国籍 日本
職業 日本画家
肩書 帝室技芸員
活動期間 1880年代 - 1919年
代表的な実績 「大仏開眼」「瀟湘八景」
別名 天籟散人


概要[編集]

寺崎広業(てらさき こうぎょう、1866年 - 1919年2月21日)は、明治から大正にかけて活躍した日本画家。秋田県の出身で、号は天籟散人(てんらいさんじん)。東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授を務め、横山大観下村観山菱田春草らと並んで近代日本画の確立に尽力した一人である。歴史画・山水画・美人画と画域が広く、優美で品格のある画風で知られる。 苦学の末に絵で身を立てた立志伝中の人物で、私塾「天籟画塾」から300人もの門人を送り出した教育者でもあったらしい。

苦学から美校教授へ[編集]

秋田に生まれた広業は、独学に近いかたちで画技を磨いた苦労人。上京して頭角を現し、1898年(明治31年)には東京美術学校の助教授に迎えられた。 しかし同年、校長岡倉天心の排斥運動が勃発。天心派だった広業は天心や橋本雅邦横山大観下村観山らとともに美校を去り、新たに創設された日本美術院に加わった。

天籟画塾と帝室技芸員[編集]

1901年(明治34年)、広業は東京美術学校教授として復帰し、以後は官学の中心人物の一人となる。「天籟散人」と号して私塾天籟画塾を開き、野田九浦・中村岳陵ら約300人の門下を育てた。 1913年(大正2年)には美術学校の日本画科主任に就任。1917年(大正6年)には画家にとって最高の栄誉である帝室技芸員に任じられ、斯界の頂点に立った。文展(文部省美術展覧会)の審査員も務め、画壇の重鎮として君臨した。

代表作[編集]

代表作に「大仏開眼」「瀟湘八景」「渓四題」「高山清秋」などがある。歴史や古典に題材をとった格調高い作品から流麗な山水・美人画まで幅広くこなし、その達者な筆さばきは同時代の画家からも一目置かれた。

最期[編集]

1919年(大正8年)2月、惜しまれつつ世を去った。54歳(数え)だった。岡倉天心を慕った近代日本画の世代が画壇の中核を担っていく時代の橋渡しをした一人として、その名は記憶されている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]