| 中村不折 なかむら ふせつ | |
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| ファイル:中村不折.jpg | |
| 本名 | 中村鈼太郎 |
| 誕生日 | 1866年8月19日 |
| 死亡日 | 1943年6月6日 |
| 死亡年齢 | 76歳 |
| 出身地 | 江戸京橋八丁堀(長野県伊那市高遠町で育つ) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 不同舎(小山正太郎門下) |
| 職業 | 洋画家・書家 |
| 肩書 | 太平洋美術学校初代校長/書道博物館創設者 |
| 活動期間 | 1890年代 - 1943年 |
| 代表的な実績 | 太平洋画会/書道博物館の創設/新聞挿絵・書 |
| 別名 | 不折 |
概要[編集]
中村不折(なかむら ふせつ、1866-1943)は、明治から昭和にかけて活躍した洋画家・書家。絵も書も一流というマルチな芸術家で、正岡子規の本の挿絵や装丁を手がけた盟友として、また新宿中村屋の看板やビールのラベルの文字を書いた「街に残る文字の人」として知られる。
歴史画を得意とする洋画家でありながら、中国の書のコレクターとしても超一流で、私財を投じて書道博物館を創設した。「絵描き」「書家」「コレクター」という三つの顔を持つ、近代美術史でも珍しいタイプの人物である。
高遠で育つ[編集]
江戸京橋に生まれるが、明治維新の混乱を避けて一家で信州・高遠(長野県)に移り、ここで育った。苦学の末に画家を志して上京する。
洋画の修行と高橋是清[編集]
1887年に上京し、なんと高橋是清(のちの首相)の家に書生として住み込みながら、画塾「不同舎」で小山正太郎に師事して洋画を学んだ。生活のために新聞や雑誌の挿絵を描いて腕を磨いた。
正岡子規との親交[編集]
日本新聞社で挿絵を担当していた縁で、生涯の友となる正岡子規と出会う。子規の俳論集『獺祭書屋俳話』をはじめ、子規の著書の装丁や挿絵を不折が手がけ、二人は俳句と絵を通じて深く結びついた。子規を取り巻く文人サークルの一員として、高浜虚子・河東碧梧桐・夏目漱石らとも交流があった。
フランス留学と太平洋画会[編集]
1901年から1905年までフランスに留学し、ラファエル・コランやジャン=ポール・ローランスに学んだ。帰国後は太平洋画会に所属し、主に歴史画の分野で活躍。1929年には太平洋美術学校が開校し、その初代校長に就任、後進の育成にも尽力した。
書と書道博物館[編集]
不折は書家としても一家をなし、力強く個性的な書で人気を博した。新宿中村屋の看板「中村屋」、ヱビスビールや清酒「真澄」の文字など、いまも街に残る商標の多くが不折の筆によるものとされる。中国・日本の書道資料の大コレクターでもあり、1936年、東京・台東区根岸の自邸跡に私財を投じて書道博物館を開館した。
余談[編集]
- 「絵描きが書く字」ではなく本格的な書家として評価された点で、画家としても書家としても認められた稀有な存在だった。
- 書道博物館は現在も台東区立として運営され、不折が集めた拓本や法帖などの貴重なコレクションを伝えている。
- 子規の肖像といえば不折の描いたものが思い浮かぶほど、二人のイメージは結びついている。