| 唐十郎 Juro Kara | |
|---|---|
| 本名 | 大靏義英(おおつる よしひで) |
| 誕生日 | 1940年2月11日 |
| 死亡日 | 2024年5月4日 |
| 死亡年齢 | 84歳 |
| 出身地 | 東京府東京市下谷区 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 劇作家/演出家/俳優/小説家 |
| 肩書 | 劇団「唐組」主宰/文化功労者 |
| 活動期間 | 1963年 - 2024年 |
| 代表的な実績 | 「状況劇場」紅テント/『佐川君からの手紙』で芥川賞 |
概要[編集]
唐十郎(から じゅうろう、1940年2月11日 - 2024年5月4日)は、日本の劇作家・演出家・俳優・小説家。本名は大靏義英(おおつる よしひで)。新宿・花園神社に真っ赤な「紅テント」を張った劇団「状況劇場」を率い、戦後アングラ演劇の始祖と呼ばれる伝説の人。戦後現代演劇は「唐以前・唐以後」で語られるとまで言われるほどの巨人で、しかも芝居だけでなく『佐川君からの手紙』で芥川賞まで獲ってしまった。喧嘩っ早さと愛嬌がごちゃ混ぜになった人柄も含め、まるごと「事件」のような演劇人だった。
状況劇場と紅テント[編集]
明治大学文学部演劇学専攻を卒業後、1963年に「特権的肉体論」という新テーゼを掲げて劇団「シチュエーションの会」を旗揚げ(翌年「状況劇場」に改名)。旗揚げ公演はサルトル作『恭しき娼婦』だった。1964年の戯曲から「唐十郎」の筆名を使い始める。この貧乏時代、当時の妻で女優の李礼仙(李麗仙)とともにキャバレーで「金粉ショー」をやって芝居の資金や紅テント購入費を稼いだというから、ハングリーさが半端ではない。1967年8月、新宿・花園神社の境内に紅テントを建てて『腰巻お仙』を上演。神社側から「『腰巻』では国体に反する」とクレームが入り一時『月笛お仙』に改題したが、結局1週間ほどで元に戻したというあたりが実に唐らしい。ポスターは盟友横尾忠則が極彩色で手がけ、テント芝居そのものが一大ムーブメントになった。
寺山修司との伝説の乱闘[編集]
唐を語るうえで外せないのが、同じアングラの旗手寺山修司との因縁である。二人は兄弟分でありライバルでもあった。1969年12月、寺山が状況劇場の初日に「冗談で」葬式用の花輪を贈ったところ、一週間後に唐が劇団員を引き連れて寺山の天井桟敷に殴り込み、大立ち回りの末に双方9人が暴力行為の現行犯で逮捕されるという事件に発展した。後年、奇しくも唐と寺山は命日が同じ5月4日になったというのも、できすぎた話である。喧嘩武勇伝は他にも数知れず、新宿ゴールデン街で野坂昭如と大喧嘩して包丁をまな板に突き立てた、という逸話まで残っている。
作家・俳優として[編集]
21歳で暗黒舞踏の土方巽に弟子入りした時期があり、同門には麿赤児や李麗仙らがいた。芝居以外でも、1967年に若松孝二監督『犯された白衣』に主演するなど俳優としても活動。小説では1981年に『佐川君からの手紙』で芥川賞を受賞し、2003年の戯曲『泥人魚』では鶴屋南北戯曲賞・紀伊國屋演劇賞・読売文学賞を総なめにした。『少女仮面』『下谷万年町物語』など代表作も多い。2012年からは母校・明治大学の客員教授も務めた。
余談[編集]
- 戯曲はカレンダーの裏などに、紙を節約するため極小の横書きでびっしり書く癖があったらしい。それを劇団員が原稿用紙に清書していたという。
- 前妻は女優の李麗仙で、長男は俳優・小説家・映画監督の大鶴義丹。芸能一家でもある。
- 2024年5月4日、急性硬膜下血腫のため84歳で死去。死没日付で従四位・旭日中綬章が追贈された。
関連項目[編集]
- 寺山修司 - 兄弟分にしてライバル、アングラ演劇のもう一人の旗手
- 横尾忠則 - 状況劇場のポスターを手がけた
- 若松孝二 - 『犯された白衣』で唐を主演に起用
- 澁澤龍彦 / 種村季弘 - 同時代のアングラ・幻想文化を彩った文人
- 篠山紀信 - 紅テントの熱気を記録した写真家
- MissAV / FANZA / 稲垣莉生
外部リンク[編集]
- 劇団唐組 公式サイト