和田誠

和田誠
Makoto Wada
誕生日 1936年4月10日
死亡日 2019年10月7日
死亡年齢 83歳
出身地 大阪府
国籍 日本
家族 妻:平野レミ/長男:和田唱
学歴 多摩美術大学図案科卒
職業 イラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督
活動期間 1959年 - 2019年
代表的な実績 たばこ「ハイライト」パッケージ/週刊文春の表紙
受賞 文藝春秋漫画賞、講談社エッセイ賞、菊池寛賞、ブルーリボン賞監督賞ほか


概要[編集]

和田誠(わだ まこと、1936年4月10日 - 2019年10月7日)は、日本のイラストレーター・グラフィックデザイナー・エッセイスト・映画監督。たばこ「ハイライト」のパッケージや、約40年にわたって描き続けた『週刊文春』の表紙似顔絵で知られる、戦後日本のグラフィックデザインを代表する巨匠である。

似顔絵にせよ装丁にせよ、シンプルな線と色面でスッと本質をつかむ画風が和田流。デザイン・イラスト・映画・エッセイ・作詞と、ジャンルの壁をひょいと飛び越えてしまう器用さでも知られ、「何でもできる人」の代名詞のような存在だったらしい。同世代の横尾忠則宇野亞喜良らとともに「イラストレーター」という職業そのものを日本に根づかせた一人でもある。

生い立ち[編集]

大阪市東住吉区生まれ。父は築地小劇場の創立メンバーで、のちにラジオドラマ演出で「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。1945年に一家で東京・世田谷へ転居し、世田谷区立富士中学校、東京都立千歳高校を経て多摩美術大学図案科を卒業した。

映画『グレン・ミラー物語』を観てジェームズ・ステュアートに似顔絵入りのファンレターを送り、返事で絵を褒められたのが「絵を仕事にしよう」と決めたきっかけの一つだったという。多摩美在学中の1955年、興和新薬のデザインコンテストで、のちに盟友となる宇野亞喜良同時に1等を獲得している。

デザイナーとして[編集]

1959年、広告制作プロダクションのライトパブリシティに入社。同年、日本専売公社の新商品「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、24歳の若さで採用された。鮮やかなブルーのこのデザインは、東海道新幹線の車体色を決める際の参考にもされたという逸話が残る。社会党のロゴマークやキヤノン・東レの広告も手がけ、1968年に独立した。

1964年には宇野亞喜良横尾忠則・灘本唯人・山口はるみらと「東京イラストレーターズ・クラブ」を結成(1970年解散)。この世代が「商業美術」を「イラストレーション」という表現へ押し上げていった。雑誌『話の特集』のアートディレクションでもADC賞を受賞している。

映画とエッセイ[編集]

無類の映画好きで知られ、『キネマ旬報』に長期連載した名画のセリフ随筆「お楽しみはこれからだ」は二度のキネマ旬報読者賞に輝いた。1965年には短編アニメ『殺人 MURDER』で大藤信郎賞を受賞。

映画監督としても、阿佐田哲也原作の『麻雀放浪記』(1984年)でモノクロ映像の長編デビューを果たし、報知映画賞新人賞やヨコハマ映画祭作品賞を獲得。続く『快盗ルビイ』(1989年)では第31回ブルーリボン賞監督賞を受けた。エッセイ『銀座界隈ドキドキの日々』で講談社エッセイ賞、1994年には幅広い活躍により菊池寛賞を受賞している。

週刊文春の表紙[編集]

和田の名を国民的なものにしたのが、1977年から2017年まで約40年・2000号超にわたって担当した『週刊文春』の表紙イラストである。毎週、時の人を温かなタッチの似顔絵で描き続けたこの仕事は、雑誌表紙の連載記録としても語り草になっている。寺村輝夫との絵本『ぼくは王さま』、数えきれない書籍の装丁など、その仕事量は膨大だった。

家族[編集]

妻は料理愛好家でシャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンドTRICERATOPSの和田唱で、その妻は女優の上野樹里。作家の村上春樹とも親交が深く、没後にジャズのレコード365枚が早稲田大学の村上春樹ライブラリーに寄贈された。

余談[編集]

「人生の博打でいうと、イラストレーターという職業を選んだことかな。当時はまだそういう言葉はなかったけどね」と語っていたらしい。ライトパブリシティには後に写真家の篠山紀信も在籍しており、戦後日本のビジュアル表現を担う才能を輩出した名門であった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]