| 原田直次郎 Harada Naojirō | |
|---|---|
| 誕生日 | 1863年10月12日 |
| 死亡日 | 1899年12月26日 |
| 死亡年齢 | 36歳 |
| 出身地 | 江戸(現在の東京) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 工部美術学校(中退)/ミュンヘン |
| 職業 | 洋画家 |
| 活動期間 | 1880年代〜1899年 |
| 代表的な実績 | 「騎龍観音」「靴屋の阿爺」 |
概要[編集]
原田直次郎(はらだ なおじろう、1863〜1899)は、明治時代の洋画家。ドイツ・ミュンヘンで本格的なアカデミズム洋画を学び、堂々たる大作「騎龍観音」を残した……のだが、36歳で早世してしまった悲運の天才である。
そして何より、文豪・森鴎外(赤リンク回避のため平文)の親友としても知られる。鴎外がドイツ留学中にミュンヘンで出会い意気投合、原田は鴎外を美術の世界に引き込んだ張本人らしい。鴎外の小説『うたかた記』の主人公・巨勢のモデルは原田だと言われている。文学と美術、明治のエリート青年ふたりの友情がアツいのだ。
ミュンヘン仕込みの本格派[編集]
原田は工部美術学校系の流れで洋画を学んだあと、1884年にドイツへ渡る。ミュンヘンでガブリエル・フォン・マックスに師事し、約3年間みっちりとヨーロッパ・アカデミズムの油彩技法を吸収した。当時の日本人洋画家としては珍しく、本場の歴史画・人物画の王道を正面から修めた人物である。
帰国後は画塾「鐘美館」を開き、後進の指導にもあたった。日本にまだ油絵具すらまともに無かった時代に、ヨーロッパの重厚な写実をそのまま持ち帰った意義は大きい。
騎龍観音と外山正一論争[編集]
原田の代表作といえば、なんといっても「騎龍観音」(1890年)。龍に乗って雲海の上に立つ観音菩薩を、西洋の油彩技法でリアルに描いた異色の大作で、第三回内国勧業博覧会に出品された。和の画題を洋の技法で描くという挑戦である。
ところがこの作品、博覧会では無賞。さらに東京帝大教授の外山正一が「画題が貧弱で思想がない」と痛烈に批判したことから、いわゆる「外山正一の絵画論争」が勃発。これに猛然と噛みついたのが親友の鴎外だった。鴎外は美術評論家としても外山を論破しにかかり、明治の芸術論争史に残る一幕となった。「騎龍観音」は現在、東京国立近代美術館に寄託されている。
明治美術会と脂派[編集]
原田は1889年に結成された日本初の洋画団体「明治美術会」に浅井忠・小山正太郎・山本芳翠・松岡寿らと参加した。彼らの暗く重厚な色調は、のちに黒田清輝ら明るい「外光派(紫派)」が登場すると「脂派(やには)」と呼ばれて対比されるようになる。原田はその脂派を代表する一人だった。
早すぎる死[編集]
将来を嘱望されながら、原田は1894年ごろから結核に倒れ、1899年に36歳の若さで世を去った。あまりに短い画業だったが、「騎龍観音」一点だけでも日本近代洋画史にしっかり名を刻んでいる。鴎外は終生この友を悼んだという。
余談[編集]
- 鴎外の著作には原田が描いた挿絵がいくつも残っており、文豪と画家のコラボは今見るとなかなか豪華。
- 岡山ゆかりの洋画家として、同じ岡山藩士の家系の松岡寿とセットで語られることも多い。