中川八郎

中川八郎
Nakagawa Hachirō
誕生日 1877年
出身地 愛媛県喜多郡五十崎町
国籍 日本
学歴 不同舎(小山正太郎)
職業 洋画家
活動期間 1890年代 - 大正期
代表的な実績 太平洋画会の結成、臨場感ある風景画
関連活動 太平洋画会評議員
別名 州山


概要[編集]

中川八郎(なかがわ はちろう、1877-)は、明治中期から画壇で活躍した洋画家。吉田博の盟友として知られ、小山正太郎の不同舎に学んで「太平洋画会」の結成に参画した一人である。堅実で穏健な画風と、その場の空気まで写し取るような臨場感あふれる風景画で知られた。

日本画から洋画へ[編集]

1877年、愛媛県喜多郡五十崎町に生まれた。幼くして両親を失い、叔父に引き取られて大阪で育つ。はじめは「州山」と号して日本画を学んでいたが、1895年に京都の勧業博覧会で日清戦争を描いた油絵に感動し、洋画へ転向したという。きっかけが戦争画というのも時代を感じさせる。大阪の松原三五郎に手ほどきを受けたのち、1896年に上京して小山正太郎の不同舎に学んだ。

吉田博とともに渡米・渡欧[編集]

中川の人生で大きいのが、画友・吉田博との二人三脚である。両者はそろってアメリカに渡り、個展を開いて好評を博した。さらに渡欧して各地を巡り、1901年に帰国。海外で実地に研鑽を積んだ経験は、その風景画に確かな実力を与えた。新興の洋画家が自力で海を渡り、海外で個展を成功させたという点で、当時としては相当に進取の気性に富んでいたといえる。

太平洋画会の創立[編集]

帰国後の1901年、明治美術会の改組にともなって誕生した太平洋画会の結成に参画し、評議員となった。吉田博満谷国四郎石川寅治丸山晩霞らと並ぶ、太平洋画会の初期を支えた中核メンバーである。1903年には再び渡欧し、1906年に帰国。生涯にわたって堅実な風景画を描き続け、官展を舞台に出品を重ねた。派手さよりも実直さで評価された画家であった。

余談[編集]

  • 吉田博とは渡米・渡欧をともにした無二の画友で、太平洋画会の「海外組」を象徴する存在だったらしい。
  • 不同舎・太平洋画会という系譜は、黒田清輝の白馬会に対するもう一つの洋画の流れで、中川はその堅実派の代表格である。

関連項目[編集]