タモリ
Tamori
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2026年10月1日、東京都庁での名誉都民顕彰式にて(出典:共同通信配信・熊本日日新聞)
本名 森田一義(もりた かずよし)
誕生日 1945年8月22日
年齢 81歳
出身地 福岡県福岡市
国籍 日本
家族 妻(1970年結婚、一般人)
血液型 O型
学歴 福岡県立筑紫丘高等学校卒業、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修中退(抹籍)
職業 タレント、司会者、コメディアン
肩書 お笑いBIG3の一角、日本坂道学会会長
活動期間 1975年 -
代表的な実績 『笑っていいとも!』32年・全8,054回の単独司会、『ミュージックステーション』司会(1987年 - )、『タモリ倶楽部』『ブラタモリ』
受賞 ギネス世界記録(生放送バラエティー番組単独司会最多ほか)、伊丹十三賞(2010年)、菊池寛賞(2014年)、日本放送協会放送文化賞(2017年)、名誉都民(2026年)ほか
事務所 田辺エージェンシー
関連活動 ジャズ、ONEレーベル主宰
あだ名 タモさん


概要[編集]

タモリ(本名:森田一義〈もりた かずよし〉、1945年8月22日 - )とは、福岡県福岡市出身のタレント・司会者である。『笑っていいとも!』を32年間、全8,054回にわたって一人で仕切り続けた「お昼の顔」であり、明石家さんま、ビートたけしと並ぶ「お笑いBIG3」の一角。サングラスの奥で坂道と地層と鉄道に目を輝かせる、日本のテレビ史上もっとも長く茶の間に居続けた男だ。

詳細[編集]

「タモリ」という名前[編集]

芸名の「タモリ」は、本名の「森田」をひっくり返したもの。ジャズミュージシャンの間で使われる、言葉をあべこべにする「バンドマン読み」がそのまま定着した。業界でいう「ザギンでシースー」と同じノリである。本人は仲間内で呼ばれていたこの名前を、上京後もずっと名乗り続けることになる。

親しい芸能人からは「タモさん」「タモちゃん」と呼ばれることが多い。いいとも世代にとっては「タモさん」がほぼ固有名詞で、苗字も名前もないのにこれだけ通じるタレントは珍しい。

30歳でのデビュー[編集]

タモリの芸能界入りは1975年、30歳の時。大学を中退し、保険の外交員やボウリング場の支配人、喫茶店のマスターを経験した後というかなりの遅咲きだ。若手芸人がネタ見せで這い上がる今とはまったく違い、ジャズ仲間と漫画家の「この男は面白すぎる」という口コミだけで東京に呼び寄せられた、というのがタモリ伝説の出発点である。

この「素人のまま見出された」経歴が、のちの芸風にも色濃く出ている。師匠も養成所もなく、宴会芸で鍛えたデタラメの才能がそのままテレビに持ち込まれた。

サングラスの理由[編集]

トレードマークのサングラスは、デビュー時のテレビ収録がきっかけだ。素顔では迫力がないとして、構成作家の高平哲郎からレイバンのサングラスをかけるよう勧められたとされる。初期にはサングラスではなく片目のアイパッチ姿で出ることもあり、今の「優しいタモさん」とは真逆の、得体の知れない怪人というキャラクターだった。

2026年の名誉都民顕彰式では、当初はサングラスでテレビに出ること自体が「不届き」と見られ、「最初は非難ごうごうだった」と振り返っている。

経歴[編集]

福岡時代と早稲田大学[編集]

1945年8月22日、終戦からちょうど1週間後に福岡市で生まれた。祖父と父は満州からの引き揚げ者で、父は南満州鉄道などに勤めていたとされる。幼い頃から大人びた子どもで、家の前の坂道に立って行き交う人を眺めるのが好きだったという。この坂道観察が、のちの「日本坂道学会」につながっていく。

福岡県立筑紫丘高等学校では剣道部と吹奏楽部に所属し、吹奏楽部ではトランペットを担当した。高校時代にはアマチュア無線の資格も取っている。1年の浪人を経て、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。ここで所属したのがモダン・ジャズ研究会で、のちの人生を決定づけるジャズ人脈とのつながりが生まれた。研究会ではトランペット奏者を目指したものの、演奏よりも司会の腕を買われるようになったという逸話が知られている。

しかし大学は学費未納で抹籍となり、福岡へ戻ることになる。

保険外交員からボウリング場の支配人へ[編集]

帰郷後は朝日生命の保険外交員として約3年働き、その後は旅行会社に転職。系列のボウリング場(大分県日田市)の支配人を任された。さらに喫茶店のマスターも経験している。1970年には2歳年上の一般女性と結婚した。

つまり20代のタモリは、芸能とは無縁のサラリーマン生活を送っていたわけだ。ただ、ジャズ好きの仲間との縁は切れておらず、宴会での即興芸は地元の音楽関係者の間で評判になっていた。

山下洋輔一行のホテル「乱入」事件[編集]

運命が動いたのは、ジャズピアニスト・山下洋輔のトリオが福岡にツアーで来ていた時のこと。メンバーがホテルの部屋で騒いでいたところへ、見知らぬ男が乱入し、デタラメな言葉で即興芸を繰り広げたという。これが森田一義、のちのタモリである。

この場面は「伝説」として半ば神話化されており、本当にいきなり乱入したのか、事前に面識があったのか、翌日に福岡を案内したのかなど細部には諸説がある。ジャズ界隈の語り草として話が膨らんだ可能性を指摘する声もあるが、山下一行がこの男の芸に衝撃を受けたこと自体は間違いない。

山下らは東京に戻った後も「福岡にとんでもなく面白い男がいる」と吹聴し続け、ついには「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」を結成。カンパを集めて交通費を工面し、1975年6月、タモリを東京に呼び寄せた。

赤塚不二夫宅での居候生活[編集]

上京したタモリは、新宿のバー「ジャックの豆の木」で密室芸を披露するようになる。そこで芸を見て惚れ込んだのが、『天才バカボン』の漫画家・赤塚不二夫だった。赤塚は「この男を福岡に帰すのは惜しい」と、目白の自宅マンションにタモリを住まわせることにした。

この居候生活がとにかく破格だ。タモリは赤塚の服を勝手に着て、赤塚所有のベンツを乗り回し、小遣いとして月3万円ほどをもらっていた。酒がないと言えば翌日にハイネケンが何ダースも届いたという。一方の赤塚は外出時にタクシーを使い、自分の服を取りに行く時にはなぜかタモリに許可を求めていた。タモリは赤塚が別の住まいにいると思い込んでいたが、実際の赤塚は仕事場に寝泊まりしていたというオチまで付いている。

タモリは後年、この時期を「人生で一番楽しかった」と語っている。赤塚は自身の特番にもタモリを出演させ、テレビへの道を開いた。

テレビデビューとブレイク[編集]

1976年4月、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『空飛ぶモンティ・パイソン』で正式にメディアデビュー。同年10月にはニッポン放送で『タモリのオールナイトニッポン』が始まり、深夜ラジオを通じて若者の間で一気にカルト的な人気を得た。1976年12月の生放送で披露された「ソバヤ」は、のちに秘蔵音源として特番で流されたほどだ。

1977年には『徹子の部屋』に初出演。1981年にはアルバム『ラジカル・ヒステリー・ツアー』を発表し、サザンオールスターズの桑田佳祐が「狂い咲きフライデイ・ナイト」などを提供している。この頃のタモリは、毒とインテリ臭さを売りにした「夜の人」だった。

芸風・密室芸[編集]

密室芸とは[編集]

居候時代に磨かれた芸は「密室芸」と呼ばれた。名付け親は詩人の奥成達とされる。テレビでは放送できないような、仲間内の酒の席だからこそ成立する知的で毒のある即興芸、という意味合いだ。

代表的なネタは次のとおり。

  • 四か国語麻雀:国籍の違う4人が麻雀卓を囲む様子を、中国語風・韓国語風・英語風などのデタラメな言語で一人で演じ分ける。どの言葉も「それっぽい」のに意味は一切ない。
  • イグアナの形態模写:イグアナになりきって床を這い回る。初期タモリを象徴する芸で、今でも物真似される定番。
  • 中洲産業大学:架空の大学の教授に扮し、もっともらしいデタラメ講義をする。博多の歓楽街・中洲の名前を大学名にしたセンスが光る。
  • ハナモゲラ語:日本語っぽく聞こえるが意味のない言語で喋る芸。ジャズ仲間との遊びから生まれた。
  • 思想模写:寺山修司などの文化人の「考え方」そのものを真似する芸。声や顔ではなく思考回路をコピーするという、極めて高度な物真似である。

偽善嫌いと「やる気のなさ」[編集]

初期のタモリは、権威や偽善を笑い飛ばす毒舌キャラだった。テレビの司会者になってからは一転して「肩の力の抜けた進行役」となるが、根っこにある「真面目くさったものを茶化す」感覚は変わっていない。

1985年には昭和天皇の物真似を披露したところ右翼団体から抗議を受け、以後このネタは封印されたとされる。

知性派としての顔[編集]

1970年代後半のタモリは、知性や教養をありがたがる風潮を茶化す側だと見られていた。しかし実際の本人は読書家で勉強家だとされ、『ブラタモリ』で地形や地質を語る姿が広まった2010年代以降は、むしろ「教養の人」として再評価されるようになった。デタラメ言語の芸も、各国語の音やリズムを正確に聞き分ける耳がなければ成立しない。

代表番組[編集]

笑っていいとも![編集]

1982年10月4日に始まったフジテレビの昼の生放送バラエティー。正式名称は『森田一義アワー 笑っていいとも!』で、新宿駅東口のスタジオアルタから平日の正午に生放送された。2014年3月31日の最終回まで約31年半、全8,054回を数え、タモリは一度も司会の座を譲らなかった。

看板コーナー「テレフォンショッキング」は、ゲストが友人を紹介してリレー形式でつないでいく企画として始まり、番組開始から終了までずっと続いた。2002年の放送5000回でギネス世界記録に認定され、最終回では「生放送バラエティー番組 単独司会最多記録」が改めて認定された。

レギュラー陣にはSMAPの香取慎吾・草彅剛、ナインティナインなどが名を連ね、多くの若手がこの番組で全国区になっていった。明石家さんまとのフリートークコーナー「タモリ・さんまの日本一の最低男」も名物で、さんま卒業から17年後の2012年に一夜限りで復活した際は約25分間しゃべり倒した。

いいとも最終回とグランドフィナーレ[編集]

2014年3月31日の昼の最終回では、テレフォンショッキングのゲストにビートたけしが登場。紋付袴姿で「表彰状」を読み上げたが、中身はタモリへの賛辞と自慢話と毒舌のごちゃ混ぜで、タモリは「表彰状じゃないじゃん!」とツッコミを入れ続けた。

同日夜の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』は平均視聴率28.1%を記録。台本は出番順程度のものだったとされ、タモリとさんまの雑談が延々と続いたところへ浜田雅功が「長いわ!」と割って入ったのを皮切りに、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、とんねるず、爆笑問題、ナインティナインらが次々とステージに上がった。共演NGと噂された顔ぶれが一堂に会したこの光景は「奇跡」と語り継がれている。松本人志が「とんねるずが来たらネット荒れる!」と口にしたのも名場面の一つだ。

最後は「それじゃあまた、明日も見てくれるかな?」「いいとも!」で32年の幕を閉じた。後番組は『バイキング』である。

タモリ倶楽部[編集]

いいとも開始とほぼ同時期の1982年10月9日に始まったテレビ朝日の深夜番組。女性のお尻が揺れるオープニング映像で知られ、内容は鉄道、地図、マンホール、工場、食べ物など、マニアックすぎて他の番組では扱わないテーマを大真面目に掘り下げるものだった。

名物コーナー「空耳アワー」は、洋楽の歌詞が日本語に聞こえる「空耳」を視聴者から募集して再現VTRにするもので、手ぬぐいやTシャツが賞品として配られた。鉄道好きの芸能人が集まる「タモリ電車クラブ」も人気企画だった。

2023年2月に終了が発表され、同年4月1日未明(3月31日深夜)の放送で終了。放送期間は40年6か月、全1,939回にのぼる。最後の画面には英語で「洗練された皆様へ、素晴らしい40年をありがとう」という趣旨のメッセージが映された。

ミュージックステーション[編集]

テレビ朝日の音楽番組『ミュージックステーション』(通称Mステ)の司会を1987年4月から務めている。毎週金曜夜の生放送で、2021年には「同一司会者による生放送音楽番組の最長記録」としてギネス世界記録に認定された。現在のサブMCはテレビ朝日の鈴木新彩アナウンサー(2022年10月から担当)。

アーティストとの会話は淡々としつつも、たまにぽろりと出る一言が話題になる。2026年10月23日には番組40周年スペシャルが放送された。B'zや郷ひろみなど、長年この番組でタモリと顔を合わせてきたアーティストも多い。

ブラタモリ[編集]

NHKの『ブラタモリ』は、タモリが街を歩きながら地形や地質、古い道の痕跡から街の成り立ちを読み解く番組。2008年12月のパイロット版を経て2009年10月にレギュラー化し、2015年4月からは土曜夜のゴールデン枠で全国の街を巡った。

2024年3月にレギュラー放送がいったん終了したが、同年11月には東海道をテーマにした3夜連続スペシャルが放送され、ナレーションにあいみょんが起用された。そして2025年4月5日から土曜19時30分の30分番組としてレギュラーが復活。2026年も放送は続いており、9月には飛鳥、10月31日には静岡・沼津が取り上げられている。パートナーはNHKの佐藤茉那アナウンサーだ。

アナウンサーに事前の下調べをさせないのが番組の方針で、タモリの知識に素直に驚く姿が見どころになっている。専門家が説明しようとした答えをタモリが先に言い当ててしまう場面はもはや様式美である。

2025年以降の新番組[編集]

2025年7月には、NHKで『知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?』が始まった。ノーベル賞学者の山中伸弥と共にMCを務め、隔月で科学や人間の謎に迫る番組で、第1回のテーマは「AIは人間を超えるか」。タモリの芸風を学習した「AIタモリ」まで登場し、本人と対面した。

テレビ朝日では特番シリーズ『タモリステーション』も続いている。ニュース性のあるテーマを掘り下げる大型特番で、ドジャースの大谷翔平らを特集した回や、2026年8月の「日本人と石油」、同年11月の「日本の祭り」といったテーマが組まれている。80歳を超えても、レギュラーと特番の両方で第一線に立ち続けている。

趣味・こだわり[編集]

坂道と地形[編集]

タモリを語るうえで外せないのが坂道愛だ。幼少期から坂道で人間観察をしていたという筋金入りで、のちに「日本坂道学会」を設立し、2004年には著書『TOKYO坂道美学入門』を出している。ただ急なだけの坂ではなく、曲がり具合や名前の由来、周囲に残る昔の風情まで含めて坂を味わうのがタモリ流だ。

この坂道好きが地形や地質への関心に広がり、『ブラタモリ』で崖や段丘、断層を見て大喜びする姿につながった。

鉄道[編集]

鉄道好きとしても有名で、『タモリ倶楽部』の「タモリ電車クラブ」では鉄道ファンの芸能人と共に車両や路線の話で盛り上がっていた。『ブラタモリ』でも、廃線跡や駅の立地から街の歴史を読み解く場面がたびたびあり、鉄道への関心は地形への関心と地続きになっている。

料理[編集]

料理の腕前もプロ級として知られる。祖母の料理を見て育ち、出汁の取り方まで覚えたという。凝り性の性格は台所でも発揮されている。

ジャズとヨット[編集]

ジャズは大学時代から一貫して愛し続けている。ジャズスポット「J」の運営会社の取締役を務めたほか、評論家・植草甚一のレコードコレクションを引き取ったことでも知られる。2007年には自らのジャズレーベル「ONEレーベル」を設立した。名前の由来は本名の「一義」の「一」である。

ヨットも趣味で、2008年から2018年まで「タモリカップ」というヨットレースを開催していた。

人物・交友関係[編集]

赤塚不二夫への弔辞[編集]

2008年8月2日、恩人・赤塚不二夫が72歳で亡くなった。8月7日の告別式で、62歳のタモリは約8分にわたって弔辞を読んだ。手にした紙に目を落とし、時に声を詰まらせながら語った言葉は、居候時代の思い出と、赤塚の「これでいいのだ」という生き方への深い感謝に満ちていた。

結びは「私もあなたの数多くの作品の一つです」。この一節はその年の新語・流行語大賞にノミネートされ、「平成のベスト弔辞」とまで呼ばれた。

そして後日、話題をさらったのが「手にしていた紙は白紙だった」という事実だ。つまり8分間の弔辞は、ほぼ即興か、すべて頭の中に入っていたことになる。歌舞伎『勧進帳』で弁慶が白紙の巻物を読み上げる場面になぞらえ、赤塚が愛したギャグ精神で送り出したのだと受け止められた。

お笑いBIG3[編集]

ビートたけし、明石家さんまと並ぶ「お笑いBIG3」の一人。3人そろっての共演は貴重で、いいとも最終回の昼にたけし、夜にさんまが登場したのは、32年を締めくくるにふさわしい顔ぶれだった。

さんまとは、いいとものフリートークで長年掛け合いを続けた仲。たけしとは、たけしがタモリの「何もしなさ」を茶化し、タモリがそれを受け流すという関係性が定番になっている。

吉永小百合への憧れ[編集]

芸能界きっての「サユリスト」として知られ、吉永小百合への憧れを公言してきた。吉永と映画で共演した笑福亭鶴瓶に、いいともの場で激しく嫉妬してみせるのはお約束のやり取りだった。ちなみに吉永も1945年生まれで、タモリとは同学年にあたる。

後輩への一言[編集]

後輩芸人への何気ない助言が、その人の人生を変えたこともある。キングコングの西野亮廣は、タモリから「絵を描いてみたら? お前の性格ならきっと描けるようになるから」と言われたことが絵本作家としての活動のきっかけになったと語っている。

草彅剛は、番組の外ではそれほど多くを語らないが優しさが伝わってくる人だとタモリを評している。

家族[編集]

妻は2歳年上の一般女性で、1970年に結婚。タモリの個人事務所の社長も務めているとされる。夫婦に子どもはいない。その理由について本人は「自分が子どもなので親父になる責任が持てなかった」と語ったことがある。家庭と仕事をはっきり分けるのが信条で、妻について表で語ることはほとんどない。

2018年には妻の出身地である福岡県うきは市の「ふるさと大使」に就任した。

評価・受賞[編集]

主な受賞歴[編集]

  • 1981年:ベストドレッサー賞
  • 1982年・1984年:ゴールデン・アロー賞
  • 1984年:日本放送演芸大賞
  • 2002年・2014年:ギネス世界記録(『笑っていいとも!』の生放送単独司会)
  • 2010年:伊丹十三賞
  • 2014年:菊池寛賞
  • 2017年:日本放送協会放送文化賞
  • 2021年:ギネス世界記録(『ミュージックステーション』の同一司会者による生放送音楽番組最長)
  • 2023年:ギャラクシー賞
  • 2026年:名誉都民

名誉都民に[編集]

2026年10月1日、東京都の名誉都民に顕彰された。同年度は児童文学作家の角野栄子、東京ガス名誉顧問の鳥原光憲と共に選ばれ、新宿駅東口のスタジオから『笑っていいとも!』を届け続けた功績が評価された。

都庁での顕彰式では「西口にある都庁に入るのは初めて」と語って会場を笑わせた。東口のスタジオアルタには約32年通い詰めながら、目と鼻の先の西口には縁がなかったというわけだ。受章は一度辞退しようと考えたものの、褒めてもらえるならと受けることにしたと明かしている。

炎上とバズ[編集]

  • 2022年末の『徹子の部屋』で、黒柳徹子から来年はどんな年になるかと問われ、「新しい戦前になるんじゃないですかね」と答えた。終戦直後に生まれたタモリの言葉としてSNSで大きな反響を呼び、2023年の年明けには新聞や論壇でもたびたび引用された。即興の一言だった可能性も語られているが、時代を予見した発言として今も語り継がれている。
  • 2018年7月には週刊誌が女性脚本家との密会を報じたが、所属事務所は報道を否定した。
  • 2016年の誕生日会で、70歳を機に芸能界を引退するかのような発言をしたと報じられたが、その後も第一線での活動を続けている。
  • 1985年に披露した昭和天皇の物真似は、右翼団体から抗議を受けて封印されたとされる。

余談[編集]

  • 『徹子の部屋』には1977年の初出演以来たびたび出演し、1978年から2013年までは毎年の年末最後の放送に出るのが恒例だった。
  • 1984年のテレフォンショッキングには作家の有吉佐和子が出演し、タモリと応援歌を歌い出したうえ、明石家さんままで飛び入りするという伝説回になった。
  • 『タモリ倶楽部』最終回の放送は東京では2023年3月31日深夜だったが、遅れネット局の琉球朝日放送では同年8月6日まで放送が続いた。
  • 『ブラタモリ』では、案内役のアナウンサーが下調べをしない方針。タモリの方が先に答えを言ってしまい、専門家が苦笑する場面がおなじみである。
  • 『知的探求フロンティア』の第1回では、タモリの芸風を学習した「AIタモリ」が本人に笑いのアドバイスをするという、なんともシュールな対面が実現した。
  • 名誉都民の顕彰式では、「6、7年ほど前から少しずつ褒められるようになった」と語り、デビュー当時の不評ぶりを笑いに変えた。

外部リンク[編集]

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