柳宗悦

柳 宗悦
Yanagi Sōetsu / Muneyoshi
ファイル:柳宗悦.jpg
誕生日 1889年3月21日
死亡日 1961年5月3日
死亡年齢 72歳
出身地 東京府東京市麻布区
国籍 日本
家族 三男・柳宗理(工業デザイナー)
学歴 東京帝国大学文科大学(心理学)
職業 美術評論家、宗教哲学者、思想家
肩書 日本民藝館初代館長
活動期間 1910年代 - 1961年
代表的な実績 民藝運動の提唱、日本民藝館設立


概要[編集]

柳宗悦(やなぎ むねよし、1889年3月21日 - 1961年5月3日)は、日本の美術評論家・宗教哲学者・思想家。名は「やなぎ そうえつ」とも読まれる。「民藝(みんげい)運動」の創始者として知られる、近代日本の美意識をひっくり返した人物である。

「無名の職人が、実用のためにつくった、ありふれた日用品。そういう下手物(げてもの)にこそ本物の美が宿っている」——美術品でも芸術家のサインでもなく、名もなき人々の手仕事を「美」として再発見した。この「用の美」という思想は、その後の日本のクラフト観・デザイン観に決定的な影響を与えた。三男はバタフライスツールで知られる工業デザイナーの柳宗理で、親子で日本のデザイン史を動かしたことになる。

白樺派の英才[編集]

父は元海軍少将で測量学者の柳楢悦。宗悦が2歳のとき父を亡くし、母に育てられた。学習院に進み、西田幾多郎にドイツ語を、鈴木大拙に英語を習うというとんでもない環境で育ったらしい。卒業時には明治天皇から恩賜の銀時計を授けられた優等生だった。

学習院中等科のころ、武者小路実篤や志賀直哉らと知り合い、1910年に文芸同人誌『白樺』を創刊。当初の宗悦はキリスト教神学に夢中で、東京帝国大学では心理学を専攻するなど、関心は宗教・哲学・芸術を縦横に行き来していた。来日していた英国の陶芸家バーナード・リーチと『白樺』仲間として親交を結んだことも、のちの工芸への道につながっていく。

「民藝」という言葉の発明[編集]

転機は1920年代。宗悦は陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らとともに、各地の窯場や民家を巡って無名の工人がつくった器に圧倒的な美を見出していく。そして1925年ごろ、「民衆的工芸」を略して「民藝」という新語を造った。これが運動の出発点になった。

宗悦の説いた美の基準は独特だ。作家の個性や技巧の誇示ではなく、無心・無名・実用・健全——たくさん作られ、安く、毎日使われる「雑器」のなかにこそ、はからいのない自然な美(用の美)があるとした。1936年には東京・駒場に日本民藝館を開館し、自らの蒐集と思想の拠点とした。著書『手仕事の日本』『民藝四十年』などは今も読み継がれている。

朝鮮工芸への愛[編集]

宗悦を語るうえで外せないのが、朝鮮半島の工芸への深い愛である。素朴で温かい朝鮮の白磁や陶磁器に魅了され、各地で蒐集と紹介を重ねた。1922年、日本の植民地統治下で景福宮の正門・光化門が取り壊されようとした際、これに反対する文章を発表し、保存を訴えたことはよく知られている。翌1924年にはソウルに朝鮮民族美術館を設立した。異民族の文化に対するまなざしは、当時としては際立っていた。

仲間たちを世に出した目利き[編集]

民藝運動は宗悦ひとりの思想ではなく、卓越した作り手たちとの共同作業だった。陶芸の濱田庄司・河井寛次郎、英国のバーナード・リーチ、型染の芹沢銈介、そして版画の棟方志功——いずれも宗悦が見出し、世に押し出した才能である。とくに無名だった青年・棟方志功の才能を見抜いた逸話は有名で、「世界のムナカタ」誕生の陰には宗悦の目利きがあった。民藝の思想は柳宗理の工業デザインや、戦後の倉俣史朗三宅一生らへと連なる「日本のものづくり」の精神的水脈にもなっている。

余談[編集]

  • 「むねよし」か「そうえつ」か——本人は両方使い、海外では「Soetsu Yanagi」で通っている。名前の読みからして自由な人だった。
  • 食の美学を説いた北大路魯山人とは、器と料理をめぐって美意識がしばしば対比される。
  • 鈴木大拙との縁から禅・仏教思想にも深く分け入り、晩年は「美の法門」という独自の仏教美学を構想した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]