三宅一生

三宅 一生
Issey Miyake
ファイル:三宅一生.jpg
本名 三宅 一生(みやけ いっせい)
誕生日 1938年4月22日
死亡日 2022年8月5日
死亡年齢 84歳
出身地 広島県広島市
国籍 日本
職業 ファッションデザイナー
肩書 三宅デザイン事務所 創業者
活動期間 1970年 - 2022年
代表的な実績 「一枚の布」「プリーツ プリーズ」「BAO BAO」
受賞 文化勲章(2010)、レジオンドヌール勲章
事務所 三宅デザイン事務所


概要[編集]

三宅一生(みやけ いっせい、1938年4月22日 - 2022年8月5日)は、日本のファッションデザイナー。世界に「ISSEY MIYAKE」の名を轟かせた、戦後日本デザイン界の最重要人物のひとり。

服を「ファッション」ではなく「デザイン」として捉え、一枚の布から立体を立ち上げる思想で、洋服のルールそのものを書き換えてしまった人物。「プリーツ プリーズ」を着たことがある人なら分かる、あの軽さとシワにならない不思議さ——あれを発明したのがこの人らしい。家具の倉俣史朗、アートディレクターの石岡瑛子、工業デザインの栄久庵憲司、グラフィックの横尾忠則ら同時代の天才たちと並走しながら、ファッションを現代美術や工業デザインの高みへ引き上げた。

広島と原爆、そして「美しいもの」への決意[編集]

広島市に生まれ、7歳のとき広島で被爆。母を放射線の後遺症で失っている。本人は生前、原爆について多くを語ることを避け、「壊すものではなく、つくるもの、人を幸せにする美しいものについて考えたい」と語ったと伝わる。デザイナーとしての出発点に、この体験があったらしい。多摩美術大学図案科(グラフィックデザイン専攻)に進み、在学中から「衣服のデザイン」へ関心を寄せていく。

パリ修業からニューヨーク・デビューまで[編集]

大学卒業後にパリへ渡り、ギ・ラロッシュ、ジバンシィのアトリエでオートクチュールを学ぶ。1968年のパリ五月革命で、街頭に溢れる若者たちの熱気を目の当たりにし、「一部の富裕層のためのオートクチュールではなく、もっと多くの人のための服を」と志すようになったという。ニューヨークでジェフリー・ビーンのもとでも経験を積み、1970年に帰国して三宅デザイン事務所を設立。翌1971年、ニューヨークで初のコレクションを発表し、世界デビューを果たした。

「一枚の布」という思想[編集]

三宅デザインの根幹にあるのが「一枚の布(A Piece of Cloth)」という発想。体と布のあいだに生まれる「ゆとり」「間(ま)」こそが日本的な衣服の本質だと考え、西洋の立体裁断とは異なるアプローチで服を立ち上げた。刺し子、藍染め、和紙など日本の素材・技法を大胆に持ち込み、「東洋と西洋」「伝統と先端技術」を一着の中で衝突させた。パリコレでも、彼の服は「服というより動く彫刻」と評された。

プリーツ プリーズとA-POC[編集]

1988年頃から本格化したプリーツ研究が、1993年の「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」として結実。先に裁断・縫製してから熱でプリーツを定着させる独自製法で、軽量・シワにならない・洗える・たためるという、忙しい現代人にうってつけの服を生んだ。

さらに2000年前後には「A-POC(A Piece of Cloth)」を発表。一本の糸から、裁断も縫製もなしに服が立ち上がるという、まるで未来のものづくりのようなプロジェクトで世界を驚かせた。三角形のピースが連なるバッグ「BAO BAO ISSEY MIYAKE」も世界的ヒットとなっている。

スティーブ・ジョブズの黒タートル[編集]

アップル創業者スティーブ・ジョブズがいつも着ていた黒のタートルネック——あれを作っていたのが三宅一生だったというのは有名な話。ジョブズは「制服」として大量に発注しており、三宅の機能美の思想に深く共鳴していたと伝わる。

受賞と晩年[編集]

1993年に紫綬褒章、2010年に文化勲章を受章。フランスからレジオンドヌール勲章も贈られた。東京・六本木にデザインミュージアム「21_21 DESIGN SIGHT」を設立し、日本のデザイン文化の発信にも尽力。2022年8月5日、肝細胞がんのため死去、84歳没。世界中のメディアが「衣服を再発明した男」と訃報を伝えた。

余談[編集]

  • ブランド初期、店舗の内装を手がけたのは家具デザイナーの倉俣史朗。デザイン界の天才同士のコラボだった。
  • ビジュアル面では石岡瑛子、写真の篠山紀信蜷川実花ら錚々たる才能が「ISSEY MIYAKE」の世界観づくりに関わってきた。
  • 「イッセイミヤケ」という音の響きの良さもあって、海外では「ISSEY」だけで通じることも多いらしい。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]