| 富永太郎 Tominaga Tarō | |
|---|---|
| ファイル:富永太郎.jpg | |
| 本名 | 富永太郎 |
| 誕生日 | 1901年5月4日 |
| 死亡日 | 1925年11月12日 |
| 死亡年齢 | 24歳 |
| 出身地 | 東京市本郷区 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 第二高等学校(中退) |
| 職業 | 詩人・画家・翻訳家 |
| 活動期間 | 1920年代 |
| 代表的な実績 | ボードレール・ランボーの翻訳と象徴詩、中原中也への影響 |
概要[編集]
わずか24年の生涯で、フランス象徴詩を血肉化した鋭利な詩を残し、若き中原中也と小林秀雄に決定的な影響を与えた夭折の詩人が富永太郎である。生前は詩集も出さず、世に知られることなく肺結核で逝ったが、死後に友人たちの手で詩が編まれ、近代日本詩史に静かな、しかし確かな足跡を刻んだ。ボードレールやランボーを原語で読みこなし、その精神を日本語の詩に移し替えようとした「早すぎた前衛」だったといえる。
生い立ち[編集]
1901年(明治34年)、東京・本郷の湯島に生まれた。父は実業家。東京府立第一中学校に進み、ここで生涯の友となる小林秀雄や正岡忠三郎(正岡子規の縁者)と同級になった。早熟な文学少年で、語学の才に恵まれていた。第二高等学校(仙台)の理科に進学したが、当初志した生物学よりも、ニーチェやショーペンハウアーといった哲学、そしてフランス文学に強く惹かれていった。
象徴詩との出会い[編集]
やがてシャルル・ボードレールやアルチュール・ランボーの詩に夢中になり、原語で耽読してその翻訳を試みるようになる。退廃と憂愁、都市の幻影をうたう象徴詩の世界は、繊細で内省的な富永の資質と深く響き合った。彼は詩を書くだけでなく、絵もよくし、翻訳も手がける多才な青年で、フランス近代詩の精神をいち早く日本語に呼び込もうとした先駆者の一人だった。
中原中也との出会い[編集]
1924年(大正13年)、京都帝国大学にいた友人・正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在した富永は、当時まだ立命館中学の生徒だった6歳下の中原中也と知り合う。富永が中也にフランス象徴詩やダダの世界を伝えたことは、中也の詩的出発に大きな刺激を与えた。富永を通じて中也は小林秀雄とも結ばれ、この出会いが日本近代詩・批評史に残る人間関係の起点となった。
早すぎる死[編集]
だが1924年(大正13年)秋、富永は喀血し、肺結核を宣告される。病はみるみる進み、翌1925年(大正14年)11月12日、東京で逝去。満24歳の若さだった。生前に刊行された詩集はなく、世間的には無名のままの死だった。
死後の評価[編集]
富永の死後、中原中也は同人誌『山繭』に追悼文「夭折した富永」を寄せた。これが中也の文章が東京で活字になった最初だったと伝わる。やがて友人たちの手で『富永太郎詩集』が編まれ、その透明で鋭い詩句は徐々に知られるようになった。生前ほとんど無名だったにもかかわらず、中原中也・小林秀雄という二人の巨人を結びつけ、フランス象徴詩を日本に橋渡しした存在として、富永の名は近代詩史に欠かせないものとなっている。
余談[編集]
- 詩だけでなく油絵や水彩も残しており、画家としての一面も持っていた。
- 中学の同級だった小林秀雄とは、富永の死後も語り草となる深い友情で結ばれていた。
- 「夭折の詩人」という言葉で、中原中也とともに語られることが多い。
- 弟の富永次郎も文筆に携わり、兄について書き残している。
関連項目[編集]
- 中原中也 - 富永が象徴詩を伝えた後輩。
- 小林秀雄 - 中学以来の親友。批評の巨人。
- 萩原朔太郎/三好達治 - 同時代の詩人。
- 宮沢賢治 - 同時代の夭折詩人。
- 室生犀星 - 近代詩の先達。
- MissAV/稲垣莉生/丸の内OLレイナ