概要[編集]
明治初期に私塾彰技堂を開き、浅井忠や本多錦吉郎ら次世代の洋画家を育てた草分け。土佐藩士から軍人、イギリス留学生を経て画家へ転じるという異色の経歴を持つが、わずか29歳で早世した「日本洋画の祖」の一人らしい。
| 国沢新九郎 くにさわ しんくろう | |
|---|---|
| 誕生日 | 1848年1月27日 |
| 死亡日 | 1877年3月12日 |
| 死亡年齢 | 29歳 |
| 出身地 | 土佐国 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 洋画家 |
| 肩書 | 彰技堂主宰 |
| 活動期間 | 1870年代 |
| 代表的な実績 | 彰技堂の創設 |
武人から画家へ[編集]
1848年、土佐藩士に生まれた。幕末には藩の小隊司令を務め、戊辰戦争では海軍局頭取として夕顔丸の船将を務めるなど、軍人として函館戦争にも従事した武人だった。維新後の1870年、馬場辰猪らと土佐藩の留学生に選ばれ、イギリスへ渡って法律学・政治学を学ぶ。ところが1872年頃、絵に魅せられて画学へ転向するという大きな方向転換をする。
ロンドンでの修業[編集]
ロンドンに移り、肖像画家ジョン・エドガー・ウィリアムズに師事して本格的に油彩を学んだ。当時の日本人としては最も早い時期に、本場で西洋画の技法を直接吸収した一人である。1873年に帰国命令を受け、翌1874年に帰国した。
彰技堂[編集]
1874年11月、東京・麹町平河町に洋画塾彰技堂を開いた。毎月の平河天満宮の縁日には塾生の作品を玄関に並べ、竹川町には洋画展覧会まで開設するなど、洋画の普及に熱心に取り組んだ。門下からは本多錦吉郎・守住勇魚・浅井忠・西敬らが育ち、日本洋画の最初期の人材育成拠点となった。
早世とその後[編集]
だが国沢は1877年、わずか29歳で病没してしまう。彰技堂は遺言により高弟の本多錦吉郎が継承し、その後も洋画教育の場として存続した。高橋由一と並ぶ近代洋画の先駆者でありながら、短命ゆえに作品も少なく、長く忘れられがちだった人物である。近年は研究が進み、再評価が進んでいる。
余談[編集]
- 近年、彰技堂で使われた画塾教材の写本が高知県立美術館で確認され、150年前の洋画教育の実態を伝える新資料として話題になった。
- 軍人・留学生・画家・教育者と肩書がころころ変わる、明治初期ならではのスケールの大きな人生だった。