| 合田清 Gōda Kiyoshi | |
|---|---|
| 誕生日 | 1862年 |
| 死亡日 | 1938年5月6日 |
| 出身地 | 江戸・赤坂(現在の東京) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 木口木版画家 |
| 活動期間 | 1880年代〜1930年代 |
| 代表的な実績 | 木口木版の導入。生巧館の創設 |
概要[編集]
合田清(ごうだ きよし、1862〜1938)は、明治の木版画家・版画技師。フランス仕込みの精密な木口木版(こぐちもくはん)の技術を日本に持ち帰り、画家山本芳翠とともに工房「生巧館」を開いて、近代日本の出版・印刷文化に大きな足跡を残した人物である。地味だが、明治のビジュアル文化の縁の下の力持ちといえる。
フランスで木版に出会う[編集]
合田は江戸・赤坂の旗本の家に生まれた。1880年、兄が駐仏武官として渡仏するのに同行し、もともとは農学を学ぶつもりでパリへ。ところが現地に留学していた洋画家山本芳翠に勧められ、彫版師シャルル・バルバンの工房で木口木版の技術を本格的に習得することになる。人生、何が転機になるか分からないものだ。
木口木版とは、木材を年輪に対して垂直に切った硬い断面(木口)に、ビュランという彫刻刀で精緻な線を刻む技法。写真製版が普及する前の「高精細印刷」の主役で、ヨーロッパでは挿絵や新聞図版に大活躍していた。
生巧館の創設[編集]
1887年、合田は山本芳翠とともに帰国。秀英舎の佐久間貞一の援助を受け、東京・桜田本郷町に木口木版の工房「生巧館」を開設した。一階を木版部、二階を画学校とし、二人で後進の指導にあたった。生巧館は近代日本の挿絵・図版印刷の重要な拠点となり、多くの木版彫師を育てた。
明治のメディアを支える[編集]
合田の彫った版画は、新聞や雑誌の付録・図版として広く世に出た。代表的なものに、1888年創刊の東京朝日新聞付録『貴顕之肖像』(明治天皇の肖像)や、磐梯山噴火を伝えた『磐梯山噴火真図』などがある。まだ写真印刷が一般的でなかった時代、合田の木口木版は「映像メディア」そのものだったのだ。
余談[編集]
- 木口木版はやがて写真製版に押されて衰退したが、その精密さは今も版画ファンを唸らせる。
- 画家を志した山本芳翠と、技術者として彼を支えた合田。名コンビとして明治美術史に並んで記憶されている。