| 中村憲吉 なかむら けんきち | |
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| ファイル:中村憲吉.jpg | |
| 誕生日 | 1889年1月25日 |
| 死亡日 | 1934年5月5日 |
| 死亡年齢 | 45歳 |
| 出身地 | 広島県三次郡上布野村 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京帝国大学法科大学経済科 |
| 職業 | 歌人・新聞記者 |
| 活動期間 | 1908年 - 1934年 |
| 代表的な実績 | 歌集『馬鈴薯の花』(島木赤彦と合著)『林泉集』『軽雷集』 |
概要[編集]
中村憲吉(なかむら けんきち、1889-1934)は、大正・昭和初期のアララギ派を代表する歌人の一人。広島の造り酒屋の家に生まれ、東京帝大で経済を学び、大阪毎日新聞の経済記者まで務めたという、歌人としては少々異色の経歴の持ち主である。島木赤彦との合著歌集『馬鈴薯の花』で世に出た、清新な自然詠の名手だった。
経歴[編集]
広島県三次(みよし)の素封家に生まれる。第七高等学校造士館を経て東京帝大法科大学経済科に進み、在学中の1908年に『アララギ』へ作歌が掲載される。翌1909年に上京して伊藤左千夫を訪ね、正式に門下となった。斎藤茂吉・古泉千樫ら同世代の俊英とともに、初期アララギを盛り立てる若手の一人となる。1913年、先輩の島木赤彦と合著歌集『馬鈴薯の花』を刊行し、一躍注目された。
記者と歌人の二重生活[編集]
卒業後は実業の道も歩み、1921年に大阪毎日新聞の経済部記者となる。多忙な新聞記者をこなしながら、写生に基づく端正な歌を詠み続けた。1926年に新聞社を退社して故郷へ帰り、実家の酒造業を継ぐ。歌風は正岡子規・長塚節以来の写生を受け継ぎつつ、自然や暮らしを澄んだ抒情でとらえるもので、歌集『林泉集』『軽雷集』に結実した。
晩年[編集]
晩年は結核に苦しみ、瀬戸内の尾道で療養生活を送る。1934年5月5日、肺結核と急性感冒のため尾道の仮寓で46歳の生涯を閉じた。尾道には療養した旧居が残り、ゆかりの歌とともに今も静かに海を見下ろしている。
余談[編集]
- 同じ年に没した島木赤彦とは『馬鈴薯の花』を共にした盟友で、二人の名はアララギ史で常にセットで語られる。
- 造り酒屋を継いだ歌人という点で、牛乳屋を営んだ伊藤左千夫と並び、生業を持ちながら一流の歌を残したアララギらしい一人だった。
- 尾道の旧居は文学散歩のスポットになっている。