| 津田青楓 つだ せいふう | |
|---|---|
| ファイル:津田青楓.jpg | |
| 誕生日 | 1880年9月13日 |
| 死亡日 | 1978年8月31日 |
| 死亡年齢 | 97歳 |
| 出身地 | 京都府 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | アカデミー・ジュリアン |
| 職業 | 洋画家・日本画家・図案家・随筆家 |
| 肩書 | 二科会創立会員 |
| 活動期間 | 1900年代〜1970年代 |
| 代表的な実績 | 夏目漱石の著書装丁、二科会創立参加 |
| 関連活動 | 良寛研究 |
概要[編集]
津田青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は、京都府出身の洋画家・日本画家にして、図案家・書家・随筆家・歌人・良寛研究家という超マルチな文化人らしい。98歳という長寿を生き、図案(デザイン)→洋画→プロレタリア美術→日本画とめまぐるしく作風を変えた、まさに「背く画家」。夏目漱石に油絵を教えた人物としても知られる。
パリ留学と二科会[編集]
1907年、農商務省の海外実業実習生として、のちの洋画の巨匠安井曾太郎とともにフランス・パリへ留学。アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、当時流行のアール・ヌーヴォーの図案を吸収した。1909年に帰国。1913年に文展を脱退し、翌1914年には梅原龍三郎・安井曾太郎・藤島武二らとともに在野の美術団体・二科会の創立に参加した。図案家としても着物や書籍装丁で活躍したという。
漱石との交わり[編集]
青楓のもうひとつの顔が、文豪・夏目漱石との縁。晩年の漱石に油絵の手ほどきをし、約5年にわたって門下かつ友人として親しく付き合った。漱石の小説『道草』『明暗』、森田草平の『十字街』などの装丁を青楓が手がけており、漱石本のあの瀟洒な装幀は青楓の仕事なのだった。
日本画への転向[編集]
漱石の没後、経済学者・河上肇の感化を受けてプロレタリア運動に接近。1933年までに二科会を脱退し、洋画から日本画へと大きく舵を切った。1929年には京都・東山に津田洋画塾を開いている。晩年は良寛の研究と書に没頭し、枯淡の境地で長い余生を送った。
余談[編集]
- 「五度も画風を変えた」と言われるほど変化の激しい画歴で、世間の評価に背を向け続けたことから「背く画家」とも呼ばれるらしい。
- 生誕140年を記念する展覧会が練馬区立美術館などで開かれ、近年あらためて再評価が進んでいる。
関連項目[編集]
- 安井曾太郎 - パリ留学を共にした洋画の盟友。
- 梅原龍三郎 - 二科会創立の同志。
- 浅井忠 - 近代洋画の先達。
- 藤島武二 - 洋画家。
- 黒田重太郎 - 関西洋画の同時代人。
- MissAV
- 丸の内OLレイナ
- 稲垣莉生