槇文彦

槇文彦
Fumihiko Maki
ファイル:槇文彦.jpg
誕生日 1928年9月6日
死亡日 2024年6月6日
死亡年齢 95歳
出身地 東京都
国籍 日本
学歴 東京大学工学部建築学科/ハーバード大学デザイン大学院
職業 建築家
肩書 槇総合計画事務所主宰、東京大学名誉教授
活動期間 1950年代 - 2024年
代表的な実績 代官山ヒルサイドテラス、スパイラル、幕張メッセ、4 ワールドトレードセンター
受賞 プリツカー賞(1993年)、文化功労者ほか
あだ名 モダニズムの良心


概要[編集]

槇文彦(まき ふみひこ、1928年9月6日 - 2024年6月6日)は、日本を代表する建築家。丹下健三門下で磯崎新・黒川紀章らと並ぶ世代の一人だが、彼らの劇的な造形とは対照的に、端正で抑制のきいたモダニズム建築を生涯貫いた「静かな巨匠」である。1993年にアジアで二人目(丹下に次ぐ)のプリツカー賞を受賞。代官山ヒルサイドテラスは、数十年をかけて街を育てた都市デザインの名作として今も語り継がれているらしい。

ハーバードへ[編集]

東京に生まれ、母方の祖父は竹中工務店の会長・竹中藤右衛門という建築の名門の出。慶應義塾を経て東京大学建築学科に進み、丹下健三研究室で外務省庁舎のコンペを担当したのち渡米した。ハーバード大学デザイン大学院でホセ・ルイ・セルトに学び、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル(SOM)などで実務を積む。帰国前にはワシントン大学やハーバードで都市デザインを講じるなど、国際的なキャリアを早くから築いた。

ヒルサイドテラス[編集]

1965年に槇総合計画事務所を設立。最大の代表作が、渋谷区の旧山手通り沿いに約四半世紀をかけて段階的に建てていった代官山ヒルサイドテラスである。10メートルの軒線をそろえ、用途地域が変わった後期には上層部をセットバックさせるなど、街並みと呼吸を合わせた繊細な設計で「都市デザインの教科書」と評される。表参道のスパイラル、幕張メッセ、東京体育館なども手がけ、ニューヨークの4 ワールドトレードセンターを設計した数少ない日本人建築家でもある。

野武士という言葉[編集]

槇は、富永譲・長谷川逸子・伊東豊雄ら1960年代に大学を卒業した世代の建築家たちを、主君を持たず権力も求めない「野武士」にたとえたことでも知られる。この比喩はその後の日本建築界を語るキーワードとして定着した。1979年から1989年まで東京大学教授を務め、教育者としても多くの建築家を育てた。

新国立競技場問題[編集]

2012年、新国立競技場の国際コンペでザハ・ハディドの巨大案が選ばれると、槇は早くから建設計画に反対の声を上げた。神宮外苑という立地に対してスケールが過大であること、災害時の避難誘導の難しさなどを理由に、規模縮小を訴え続けた。建築界の重鎮である槇が反対を表明したことで他の建築家も続き、世論も動いて2015年にザハ案は白紙撤回された。建築家の社会的発言力を象徴する出来事として記憶されている。2024年6月、老衰のため95歳で死去した。

余談[編集]

  • 同じ丹下健三門下でも、黒川紀章や磯崎新の派手さとは正反対の、知的で控えめな作風で「モダニズムの良心」と呼ばれた。
  • 表参道のスパイラルの館内には、磯崎新の妻である彫刻家・宮脇愛子の作品も置かれている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]