| 国枝金三 くにえだ きんぞう | |
|---|---|
| 本名 | 国枝金三 |
| 誕生日 | 1886年 |
| 死亡日 | 1941年11月20日 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 関西美術院 |
| 職業 | 洋画家 |
| 肩書 | 二科会会員 |
| 活動期間 | 大正・昭和期 |
| 代表的な実績 | 信濃橋洋画研究所の共同創立者/「都会風景」 |
| その他 | 関西洋画壇の重鎮 |
概要[編集]
国枝金三(くにえだ きんぞう、1886-1941)は、大阪出身の洋画家。小出楢重・黒田重太郎・鍋井克之とともに信濃橋洋画研究所を創立した、関西洋画壇を支えた4人組のひとりである。
派手な経歴の画家ではないが、大正末から昭和初期の「大大阪」の都市風景を描き続けた、関西モダニズムの記録者のような存在らしい。
関西美術院に学ぶ[編集]
1886年(明治19年)、大阪に生まれた。京都の画塾・関西美術院で洋画を学んだ。ここは浅井忠や鹿子木孟郎が指導した関西洋画の名門で、同門には黒田重太郎もいた。地元・関西で基礎を固めた、生粋の関西の画家である。
二科会の常連[編集]
1914年(大正3年)の第1回二科展以来、出品を続けた古参組。《若葉の頃》《島の四月》《栴檀の木の家》《都会風景》などを発表し、1923年(大正12年)には二科会会員となった。以後、関西洋画壇に重きをなした。
信濃橋洋画研究所の共同創立[編集]
1924年(大正13年)、小出楢重・黒田重太郎・鍋井克之らとともに、大阪・西区信濃橋に信濃橋洋画研究所を設立。関西で本格的に洋画を学べる教育機関の中心メンバーとなった。東京の官展中心の美術界とは別に、大阪独自の洋画の土壌を育てた功績は大きい。
大大阪を描く[編集]
国枝の画題でとくに知られるのが、近代化していく大阪の街並み——いわゆる「都会風景」である。ビルや橋、川面に映る都市の光景を、落ち着いた色調で描きとめた。当時「東洋のマンチェスター」とまで呼ばれた大大阪の空気を伝える、貴重な絵画記録となっている。
余談[編集]
- 2024年の信濃橋洋画研究所100周年記念展では、国枝も創立メンバーとして紹介され、「もうひとつの洋画史」を担った画家として光が当たった。
- 同じ研究所創立組の小出楢重が43歳で早世したのに対し、国枝も50代半ばで世を去っており、関西洋画の柱が相次いで失われたのは惜しまれる。