| 倉田百三 Hyakuzō Kurata | |
|---|---|
| ファイル:倉田百三.jpg | |
| 本名 | 倉田百三 |
| 誕生日 | 1891年 |
| 出身地 | 広島県 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 劇作家・評論家 |
| 活動期間 | 1910年代 - 1943年 |
| 代表的な実績 | 『出家とその弟子』『愛と認識との出発』 |
倉田百三(くらた ひゃくぞう、1891年 - 1943年)とは、大正から昭和前期に活躍した劇作家・評論家。親鸞とその弟子・唯円を主人公とした戯曲『出家とその弟子』と、青春の求道の書『愛と認識との出発』で、当時の若者たちに絶大な影響を与えた。宗教的な求道心と、赤裸々な愛と罪の告白とを結びつけた作風で知られる。
概要[編集]
倉田百三は、西田幾多郎の哲学に導かれて求道の道を歩み、病と闘いながら執筆を続けた。代表作『出家とその弟子』は、白樺派系の雑誌に連載されたのち岩波書店から刊行され、爆発的なベストセラーとなった。評論集『愛と認識との出発』とともに、大正・昭和の学生に長く読み継がれた「青春の書」の代表格である。
生い立ちと一高時代[編集]
1891年(明治24年)、広島県に、呉服商を営む家の子として生まれた。三次中学を経て第一高等学校に進学。ここで西田幾多郎の主著『善の研究』に深く感銘を受け、その哲学を手がかりに人生と宗教の問題を考えるようになる。一高の校友会雑誌に論文を寄せるなど、早くから思索と表現への意欲を見せていた。
病と一灯園[編集]
1913年(大正2年)、倉田は結核を患い、第一高等学校を退学する。療養生活を送るなかで、宗教家・西田天香が京都に開いた奉仕と懺悔の共同体「一灯園」に身を寄せ、無所有と奉仕の生活のなかで信仰を深めていった。この時期の宗教的な体験が、のちの代表作の核となる思想を育んだ。
『出家とその弟子』[編集]
1916年(大正5年)から翌年にかけて、倉田は戯曲『出家とその弟子』を白樺派系の雑誌『生命の川』に発表した。親鸞とその弟子・唯円を軸に、信仰と愛欲、罪と救いのはざまで揺れる人間の姿を描いたこの作品は、岩波書店から刊行されると爆発的に売れ、当時の青年層の圧倒的な共感を呼んだ。国外でも翻訳されて広く読まれ、倉田の名を一躍高からしめた出世作である。
『愛と認識との出発』とその後[編集]
1921年(大正10年)、倉田はそれまで書きためた評論・感想をまとめ、『愛と認識との出発』を岩波書店から刊行した。愛と認識をめぐる若き日の煩悶をつづったこの書は、『出家とその弟子』と並ぶロングセラーとなり、旧制高校生・大学生の必読書として世代を超えて愛読された。その後も『白樺』の後身『不二』などに拠って活動を続け、1926年(大正15年)からは雑誌『生活者』を主宰し、慕う若者たちを集めた。
晩年[編集]
昭和に入り、満州事変前後からの倉田は次第に国家主義的・右傾的な言論へと傾いていった。求道者として出発した文筆家の思想的な変転は、時代の空気を映すものでもあった。1943年(昭和18年)に世を去った。宗教と愛の問題を真正面から問うたその文学は、いまも近代日本の教養史を語るうえで欠かせない存在である。